『いつもの言葉を哲学する』古田徹也
帯の文章だけを見ると、コロナ禍における言葉の氾濫や政治家の詭弁について書かれたものかと思われるかもしれない。それはもちろんそうなのだが、私が一番おもしろく読んだのは本書の第1章だった。この章では、著者と娘さんのエピソードが頻繁に紹介されている。
娘が五歳になった頃、唐突に、「お父さんは誰のお腹から生まれたの?」と尋ねられた。
「お父さんのお母さん。福岡のおばあちゃんだね」
「じゃあ、おばあちゃんは誰から?」
「おばあちゃんのお母さん。ひいおばあちゃん」
「じゃあ、ひいおばあちゃんは誰から?」
このやりとりが少し続いた後、娘は驚いた様子で、「それじゃ、昔がなくなっちゃう!」と叫んだ(第1章第4節「深淵を望む言葉」)。
いま、六歳になろうとしている娘は、先日、歯磨きしている私に近寄るなり、「なんで頭のなかで「こう言おう」と思わなくても人はしゃべれるの?」と質問してきた。「好きな食べ物は?と聞かれたら、「唐揚げです」と思わなくても「唐揚げです」と言えるのはなんで?」(同前)
この部分だけを膨らませて1冊の本にしてもいいのではないか、とすらおもう。一番のお気に入りは、豆腐にまつわる著者の大学院生時代のエピソードである。友人と飲んだ帰りに豆腐を買って帰るというなんでもないものだが、生活と地続きにある「言葉」ほど大事なものはないと思わされた。引用すると長くなるので割愛するが、この部分だけでもぜひ読んでほしい。
第2章以降は、政治やメディアで使われる言葉について分析している。ふだんから言葉の使われ方に関心を持っている方には少し物足りないかもしれないが、細かな発見は多いと思う。たとえば、なぜ「蔓延」ではなく「まん延」と表記するのかといえば、内閣が告示する「常用漢字表」にもとづいているからだそうだ。漢字がひらがなになるだけで、その語から受ける印象はかなり違ったものになる。
生活のあらゆる場面でマニュアル化が進んでいる。「言葉」もその例に漏れず、表現方法がどんどん画一化しているような気がする。コロナ禍はその傾向に拍車をかけている。そうした状況に気持ち悪さをおぼえる方に、ぜひ読んでほしいとおもう。
#3冊目