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2021年終わるにあたって。

亡き夫とは年齢に差があった。戦時中、幼かった彼は、オランダとの海峡を挟んだイギリスのケント州に住んでいた。ドイツからロンドンに向かい上空を飛んでくる爆撃機を見たと話してくれた。不発弾を見つけた幼いわんぱく坊主は、それを転がしているのを見つかって父親にお尻をぶたれたらしい。その下の妹たちはヨークシャーやウエールズに疎開をさせられていたが、長男の夫は家の庭で、野菜を作ったり、父親の仕事を手伝ったりしていたとのことだった。歳の差を意識することはなかったが、音楽や映画の話をすると共通のものより知らないってのが多かった。近頃の私つい最近の話をしているつもりが、そんなの知らないと40代50代に言われることが度々。なんと、還暦は過ぎた、そしてこの60年の時代の変化を自分でも確実に感じる。

1970年代後半に私はロンドンに語学留学をした、まだイギリスはサッチャー政権にもなっていなかった。ロンドンの街の中ものんびりしたものだった、公衆電話からかける電話の料金は20ペンス。ロンドンでのフラットの料金が週で25ポンド。ただし当時の日本円とポンドの交換レートは500円以上だった。

イギリスから日本に戻ってきたら、とんでもないものができていた、それがソニーのウオークマンだった。最初に見た時の衝撃は忘れられない。スマートな形だし、ヘッドセットも素敵で。この辺りから、日本の景気は良くなってきた、Made in Japan, が大手を振ってまかり通っていた、薔薇色の時代だった。

日本経済は潤い、中国や東南アジアとの取引も多くなってきた頃、私は日本と中国の合弁企業で仕事をしていた。その関係で中国出張もあった。当時の中国の税関、国営百貨店で働く人は乱暴で無作法に感じた。同様な経験がソ連でもあった。多くの人はまだ人民服を着ていたし、豊かそうには見えなかった。しかしソ連、中国どちらの国でも、有能な仕事のできる女性が多くいた。日本では、女の子は結婚するまでの腰掛け就職、これが当たり前だったし、まだ男女雇用均等法もできていなかった。

そしてイギリス人の夫と香港からスペインに行くことを決めたのが、1990年。私たちはクウェート侵攻直前のアメリカの艦隊が香港に寄港しているのを見た。戦争という言葉も行為も現実味に恐ろしく欠けていた。そして日本のバブルはまだイケイケを保っていた。

戦争経験のある父、空襲を経験を持つ母、そして祖父母からも戦争については聞いていた。でも、私も偉そうに何も言えない、戦争を知らない世代だと思う。最近とある本の中でああやっぱり、と確信したことがあった。それは戦後の日本の教育では、明治以降の歴史を教えることは避けても大丈夫だということ。これに関して受験にも試験にも出ない。それは文部省と教員組合の間で歴史上の意見に差がある、ゆえに試験に出ないことが暗黙の了解であるらしい。なるほどね、それで辻褄が合う。しかし歴史はそれぞれの意見をあわせるものであろうか?確か歴史とは現在と過去との対話。でもそれには文章や記録がベースではなかろうか。どのように見せたいかというご都合ではまずすぎる。そして2000年を過ぎた頃から、日本の若い人たち第二次世界大戦の日本の同盟国がどこかわかっていないと衝撃を受けた。それどころかアメリカは同盟国だと思っているらしい。この認識で今後日本は世界とやっていけるのであろうか。

オーストラリアの友人の父は戦争経験者だった。シドニーで初めて彼の父と会った時に、我が家には日本製品は一切ないし、これからも置くつもりはありませんと言われた。それは私に対して、意地悪な感じで言われたのではなく、自然に述べられたのだけど。彼は戦争中シンガポールで捕虜生活を経験していた。その数年後、友人からついにあの頑固な父も日本製のラジカセを買う時代になりましたと手紙が来た。1980年代には世界中で家庭生活には日本製品無しでは不可能となった。電化製品は、ソニー、アイワ、サンヨー、パナソニック、シャープ、日立、パイオニア、三菱、赤井。そしてカシオ、オムロン、後はカメラ、時計、エアコン等もお値段が手頃、小型、そして信頼ができる、質の良いものが MADE IN JAPANであった。これを知っている私はきっと幸運であると思う。いつから日本は世界から脱落してきたのだろう。

スペインに暮らして数年後、イギリス人の友人が、国際機関で、ボスニアに渡った。ボスニア紛争が始まり、多くの子供たちを助けに入っていた。戦争がこんなにあっさりと起こってしまうのだと気が付いた。

ヨーロッパにはシリア、コンゴ、アフガニスタン、エリトリア、旧ユーゴスラビアから多くの人が難民として入ってくる。砂漠化によって飢餓や、戦争そして内乱。誰もできれば自分の国で暮らしたいであろうけれど、国が街が破壊され、仕事もなく、食べるものもなく、教育も受けれず、医療も受けれずどうしようもない理由で国を離れてくる。アメリカをはじめとする多くの先進国、中国、ロシアが武器を輸出するビジネスを行うために、犠牲になる国が作られていると思う。もちろん政治、人種、宗教問題があるのだろうけれど。そこに住む一市民は決して自分の土地を離れたくなんてないと思う。親兄弟と生まれた土地で、暮らしたいだろうと思う。が、そんなものは簡単に潰されることをヨーロッパに暮らしてひしひしと理解した。

今日本で起きている事の一つ。多くの人が選挙に行かず、政治に興味を示さず、全てに諦めている現象。多くの人は、もう少し我慢したらこのままなんとかなるんじゃないかと思うのだろう。自分の一票なんて、自分一人が頑張ったって何も変わらないじゃない、面倒くさい。だから何も言わない、何も知ろうとしない、戦おうとしないで行き着く先は全面敗退。きっと明日は今日と同じ日が来ると思っているだろう。この40年間ジプシーのようにいろいろな国の事情を見てきた私には、同じ明日は来ないかもしれないと毎日精一杯生きている。

偶然関西に戻っていた時に起きた1995年の阪神大震災、友人の多くが神戸界隈に住み、亡くなった知人はいなかったものの、家を失った人は多かった。そしてそれを再建するのに10数年かかった人も多かった。災害時の国からの支援の困難さも知った。でも人々は強かった、そんな中で神戸は立ち直った。

2001年のアメリカでのワールドトレーディングのテロ事件が引き金となり世界情勢は大きく変わった。そしてテロ事件が増えた。日本も自衛隊をイラクに派遣するなど戦争への貢献の仕方も変わってきた。世界では大規模な地震、火山爆発、気候変動から来る、ハリケーンやトルネード、そして洪水。ネットを通じて、世界の災害が否応なく私たちの手元に時差なく届く。安倍首相になってからは、海外にあちこち飛び歩き、国民の税金であるお金をあちらにこちらにとばら撒いた。それは本来の外交とは、対極だ。本来外交は戦争とか争いごとに至らないように話し合って、できる限り互いの国の利益と自国民の幸福な生活を考えることだと思っていたが、金さえ出したら全て私の思う通りだと。

さらに40年前には世界のどこに行っても、溢れかえっていた日本人の観光客。それも昔の話になった。今や、日本国民の中でパスポートを持っているのは20%ということだから。世界のことにはもう一つ興味がない。世界の多くの問題に関しては、少数の個人ジャーナリストが取材をしてくれているが、その発信できる機会もどんどん少なくなってきたようだ。ジャーナリストがテロに遭って捕まっても、日本人がなんでそんなところに行くの、危ないのに迷惑をかけるなから、さらには自己責任でしょうっていうのは本当に悲しすぎる。

2011年3月11日の福島震災の時に母から電話があった。私は最初に聞いたことは原発は大丈夫なの。。だった。現在のスイス人の夫は日本なんだからもちろん大丈夫だろう、対策も、準備もできているだろうと言った。それに反して私は、それは買い被りすぎだと思っていた。日本の縦構造の官僚体制、これは前世紀物。だから崩れるのなら、こんなところから来るだろうと。それがまさに的中したのが福島であったのだから。津波が来て。。。そして最終的なダメージが原発に。今年10年が過ぎた。被災された方を除くと、なんだか日本の多くの人はもう終わったかのように、忘れようとしている原発の問題は何にも解決していない。

そして2019年末から発生したCOVIDは多くの分断を作った。日本人は見事にマスクをする。マスクをしないと、疎外されるから、他人の顔色を伺ってするのであろうが。ヨーロッパでは他人の顔色はうかがわない、周りがしていようと自分がしないと決めたら絶対しない。それを管理しようとすると、スペインがしたように罰金制度となってしまう。そしてワクチンもその分断を深めている。私は、次の世代、そして孫世代の子供たちが大きくなった時に少しでも良い地球を残しておいてあげたいなとそれだけ。

普通に明日が来るなんて誰にもわからない。日本のようにいつ大地震があるかわからない国。少し想像することできっと他人に優しくなれるんではないだろうか。自分、家族、友人、近所の人、職場の人、自分の街に住んでいる人、日本に住んでいる人、それだけではなくそこに住む動物も、虫に至るまで、生存している意味がある。蜂がいなければ、果実は実らず、蜂蜜もできず、とっても小さな生き物がいて私たちもいるのだから。私は日本が好き、だから日本が素敵な国で、そこに住む人が幸せである国であって欲しいと思っている。

このNoteを書くことを勧めてくれた木内みどりさん、そしてこのNoteを楽しんで読んでくれ、そしてちゃんと校正をすぐにしてくれるもう一人の大切な友人みどりさん。ダブルみどりに支えられて今月も書いた。読んでくださった方にも感謝。

2022年寅年。願わくばCOVID が少し落ち着き、人々が心の平和と、安心を取り戻し、多くの人が少しでも幸せに暮らせる世の中に。2022年こそ日本に行きたい。

今年ももう少しで終わり。温かい心で新しい年を迎えて行けますように、皆様のご健康をお祈りしております。