僕の性@おの
みなさん、おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
T A I D E Nのおのです。
さぁ、今週もやってまいりました。休読日です。
今日からパラリンピックですしね。こんなものを読んでいただける時間があったら、絶対にアスリートの活躍する姿を見てもらうほうが有意義ですよ。すみません、大変僭越なことを申し上げました。忘れてください。あわよくば、その勢いで読むことも忘れてしまってたらどんなに嬉しいことかと思います。
今週のテーマは「性」。
テーマが決まった時から、絶対に逃げて「サガ」と読んで済ませようと思っていた僕の思惑は見事にわっせによって打ち砕かれました。さすが、わっせ。(←何様。笑)
でも、いや待てよ。
まだ「性」以外にも、可能性があるかもしれない。調べてみよう。。(往生際が悪い)とあるサイトによると、「性」の意味は9つ、成り立ちは以下の通りだそう。
①「さが(本性、生まれつき持っているその人の考え方の傾向)」(例:性格)
②「物の性質・傾向」(例:性能)
③「心」、「精神(心、意識、気構え、気力、根本の考えと言った意味を持つ言葉)」
④「命」、「生命」
⑤「生きている事」
⑥「生活」
⑦「男女の別」(例:性別)
⑧「異性に求める本能の働き」(例:性欲)
⑨「ショウ(変わらない・すべてに共通な万物の原因)」
会意兼形声文字です(忄(心)+生)。「心臓」の象形と「草・木が地上に
生じてきた」象形(「はえる・生まれる」の意味)から、「生まれながらの心」、「本性(さが)」を意味する「性」という漢字が成り立ちました。
(https://okjiten.jp/kanji832.html)より引用
ほうほう。
心臓の象徴がもうアレにしか見えないのは、きっと僕の“性”なんでしょう。
これまたありがちな議論になることをお許しください。
生物としての3大欲求とはよく言ったものです。食欲・睡眠欲・性欲ですね。こんなにも根本的欲求であるにも関わらず、なぜこんなにも恥ずかしいもの、憚られるものになってしまったんでしょう。
斯くいう僕も、今回のテーマはとても恥ずかしく書きづらいテーマであることは間違いありません。主張の内容はさておき、検索してみるととても多くの見解が示されていることに改めて驚きと事象としての面白さを覚えました。
・「性欲 恥ずかしい」約 43,400,000 件
・「性欲 隠す」約 4,350,000 件
「これってなんとなく、みんなそういうふうに思ってるけど、なんでなんだっけ?」僕らの価値観はどのように形成されてきたのかを読み解いていく過程、その一つひとつそのものが文学だと思いました。
また、一方でこのような議論がインターネット上を主戦場として展開されていることにも改めて性(セイ)に対する性(サガ)を実感したのであります。自分のためにも、気になった記事・ブログを下記しておこうと思います。
三大欲求のうちなぜ性欲だけ隠されるようになったのでしょうか?
なぜ「えっちなの」は、いけないの?
性表現規制の「歴史」から、見えてくること
検索していただければわかりますが、この手の議論は検索方法を間違えると、「男は斯くあるべき!」「男性/女性の生態!」「モテるためには!」のような、僕のような非モテ男子がありがたく閲覧し、自分との乖離に悲しくなるような、ジェンダー論をガン無視したサイトが多く見受けられます。
これは僻みではなくて、
これは僻みではなくて、
(大切なことなので2回言いました。)
恋愛のゴールはセックスのような浅はかさはまさに人間の業だなと愛おしく哀しくなります。
でも、斯くいう僕もむしろ好きな方なのだと思います。
もともと自信のない僕は、生活する中で誰かに求められる実感を欲しています。好きな人と一緒になれる時間は、僕にとってこの上なく充足感を与えくれるものであり、同じように僕が相手に分けることができたら、それはこの上ない僕の存在意義になると思っています。
つまり、今の僕には全く充足感がないのです。誰か、助けてください。
(こうやってネタにしなければこのテーマに対して自己開示をできない自分にも愛おしさと哀しさを感じます。)
完全に話題が逸れてしまいました。。。。
もう少しだけ語らせてください。僕がこのテーマで語りたいことがもう一つあります。前述の通り、「性」に対する羞恥心は根底にありつつも、「性」というものを語ることに対する抵抗は過去にあります。
大学2年生の冬の飲み会の一幕。
スポットライトを浴びて違和感を感じたでお馴染み軽音サークルの飲み会での出来事です。確か、忘年会だったでしょうか。ようやく正式にお酒も飲めるようになり、先輩たちと飲んでいた時のことです。当時オネェタレントも多くT Vに出演し大活躍していた頃だったと思います。
飲み会の中のネタみたいなもので、僕がオネェキャラの設定、男の先輩と絡むようなテンプレがあり、何度かそんな飲み会で盛り上がっていました。当時の僕は、その場にいる先輩たちが喜んでくれているように見えるのが嬉しくて、何も考えずにそんなネタを展開していました。
その飲み会の翌日、そこにいた社会系のサークルにも所属している、よくしてもらった先輩のFacebookに個人を特定できるほどの肩書きとともに、ジェンダー意識の低さを批判する投稿がそこにはありました。正直、そんなことになると思っていなかった僕は激しく動揺しましたし、なぜだかとても悲しい気持ちになったのを昨日のことのように今でも思い出します。
とても苦しくて、悲しい思い出です。
(存在意義がわからない僕にとって、存在を全否定されたようで正直もろに食いました。)
ただ、僕がこの件を通して今思うことは
『悪意のない暴力は間違いなく存在する』ということでした。
あの時、僕が狭い8畳の賃貸で泣いたのは、先輩に対する憎悪や、あの嫌がらせに近い投稿だと思っていたけれど、本当は何も言い返す言葉もなく、誰かを傷つけてしまっていたかもしれないという罪悪感からだったと今は思います。あの先輩ではなく、僕自身に苛立っていたのだと。
(でも絶対に、もっと違う指摘の仕方が必ずあったはずだと僕は思うので、僕はもっと柔らかく伝えられるように努力したいなと思います。)
だから、ジェンダー論には気をつけよう、とか。誰もが不満を持たない、万人に受け入れられるような当たり障りのない表現にしよう、とか。聖人であろうとか。そんなことが言いたいわけじゃありません。
どんなタイミングであれ、
どんな方法であれ、
自分の持つ価値観や思考を疑うこと。
自分が生み出してしまったものに対する責任として、
傷ついてしまった命と真摯に向き合うこと。
そして、そんな自分を変えていくこと。
変わり続けることを恐れないように。
僕も全てにおいてできていないと思います。完全に綺麗事です。でも、それを諦めないことが僕の生きる意味であること。それを忘れないようにするために、ここにこの傷を改めて刻んでおこうと思います。
だからこそ、何かあれば伝えてください。
変われるように努力しますし、
僕も伝えられるように努力します。
もはや完全に自分のための日記になってしまいました。読んでもらってしまってすみません。ただ、ここまで読んでもらったあなたに朗報です。
せっかくここまで読んでもらったので、とっておきの情報をお伝えしますね。来週からはちょっと頻度を落とさせていただき、週ごとに1人担当することになるようです。つまり毎週休読日ではなく、5週に一度、休読週が来ることになるわけですね。お会いする機会が少し下がってさぞ清々することでしょう!僕は寂しいです!
それでは、また。
ぶん:おのこうた。
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