優しさの裏には、無関心。 【エッセイ】
「優しいね」「優しそうだね」
僕はよくこのようなことを言われる。小学6年生のころ、1年生から「優しいお兄さん」と言われたときは嬉しかった。
でも、僕は優しくない。誰がどうなろうと、そんなことには興味がないのだ。優しくしてるつもりもないし、そもそも人との記憶を覚えていられない。そのことに気がついたとき、優しさとは無関心だと思ったのだ。
人に興味を持とうと本に書いてあった。僕には無理だ。他人のことはどうでもいいし、自分が興味のあることで手一杯。だから相手のことは肯定してやろう。
友人が言うには、僕は人のことを否定することがないのだそう。確かにそうだ。アニメが好きでも、サッカーが好きでも、僕はどのみち興味がない。たまに僕と趣味が同じ人がいたとしても、話していくと結局は好みは違う。だから他人はどうでもいい。
「どうでもいい」は便利な言葉だ。興味がないというつもりで言ったら、「どっちもいい」と受け取られた。優しいね。
何かを肯定することは、その他を否定することを意味する。好きな野球チームを肯定するとき、その他のチームを否定している。僕にも一応、好きなチームはある。だけど、それを人に共感してもらおうとは思わない。自分のことなど理解しないでほしいとすら思う。みんな違って、みんないい。
さて、何を言いたかったんだろうか。見失ってしまった。つまり、こういうことだ。あらゆることを受け入れていると、優しい人に認定される。しかし、それは優しさではなくて、究極まで他人に興味を持たなくなった結果でしかない。
だから僕に優しいと言わないでほしい。僕は君が思っているような心の持ち主ではないのだから。その期待に応えられていないことに罪悪感を覚える。そんなことはないのだけれど。