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【アーティスト黙示録】正解のない創作活動に、不正解がある。
映画、芸術への投資家が増え続けている。一方で、ただ他人の資産に群がるだけの“偽アーティスト”が激増しているのも、事実。彼らはやがて弾劾されることに、気付いていない。このトピックでは、「無意識の“偽物”にならないための原則」を、知ることができる。生涯を創作活動の中に生きたい“本物の”アーティストの、ために書く。
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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 本物の価値 』
「作品に正解はないが、間違いはある。」
これは、“鬼滅の刃”を手がける、若き女性アニメーターの言葉だ。明解でありそこには、真がある。
答えの無い目的に挑むアーティストたちの多くは、偽物である。あえて批判を承知で書くからには、確信と覚悟がある。世は空前の“意識高い系ムーヴメント”にありその証明ツールとして、“芸術”の分野が活用されている。
その芸術業界はといえば広義には「作品など独得の表現様式によって美を創作や表現する活動のこと」とされるが実態は、「金」と「習性」である。業界内のインフラもプラットフォームもそして、人間も、どちらかに大別できる。
なお、“情熱”や“愛”はどちらにとっても存在が当然で在り、ここで取り上げるほどに大したものではない。
金か習性、どちらかに正直な活動を続ける者たちによって維持伝承されてきた芸術界だが、そこに無自覚な一般人が介入している現状は、危険だ。答えの無い作品世界に“偽の価値”が持ち込まれ、均衡が失われるためだ。
評価すべきは、「本物のアーティスト」と、「正しい支援者」である。
芸術に正解はないが、偽物はあるということだ。
そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際ニュース:NFLフィラデルフィア イーグルスのオーナー、 ジェフリー ルーリーが社会問題に挑んだ方法は、映画
ナショナル フットボール リーグのフィラデルフィア イーグルスのオーナー、 ジェフリー ルーリーは、“ドライブインシアター”でホットドッグを焼き、ソーダを販売していた過去がある。「調理や接客をしていないときは、ドライブインシアターの車に隠れているチケットを買っていない人を確認するのが仕事でしたよ」
数十年後、ビリオネアヘッドとしてルーリーはフランチャイズをスーパーボウルチャンピオンシップに導き、NFLで最も大きな成功者の一人になった。いまジェフリー ルーリーは、「映画」に注目したいという。「映画を使って、社会正義の問題にスポットライトを当てたいんだ。映画の世界には、宣伝的な視点ではなく、人間的な視点から重要な物語を語る力があるんです」
ルーリーは制作会社のPlay/Action社を通じて、企画の開発と資金調達を支援した。ルーリーは、お金を稼ぐため胃映画を制作しているわけではない、という。「それは私の主な事業ではないからね。私は“社会的な責任”という感覚から、それを実行します」プロデューサーのマリー テレーズ ギルギスに、プロダクションの責任者を依頼した。彼女が語った。「最初に伝えたわ。貴方が“自分の映画”を創りたいなら、わたしは適任ではない、ってね。芸術や文化の文脈やトピックの定義と拡大が目的なら協力するわ、って」 - JULY 15, 2021 VARIETY -
『 ニュースのよみかた: 』
フットボールのビリオネアオーナーが、芸術と文化貢献のための映画制作プロダクションに出資。彼はかつて野外映画館でホットドッグを焼いていた、という記事。
「映画を使いたい、社会正義のために。映画には広告的ではなく、人間的に語る力があるから」なんてすばらしい。先の“若き女性アニメーター”と同様、こんなに短文で的確に真を打つ実力者は希有だ。
武道以外、オリンピック含むスポーツ観戦には1mmの興味も無いわたしがNFLのオーナーを抱きしめたい衝動に駆られた。「映画の価値と意義」を正しく理解している存在がまさか“スポーツ界”に存在しようとは、感謝のうえで謝意をお伝えしたい。オーナー、貴方は価値の判るいい男だ。
『 映画の価値 』
生誕126年の映画はいつしか古典扱いで、ルールとマナーに縛られている。映画に、ルールは無い。カリキュラムもフォーマットも“過去の分析”に過ぎず遵守する必要は、一切無い。一方で、「マナー」は厳格だ。積み上げられた価値を遵守するための行儀と作法であり、先人への敬服と文化価値への敬愛こそが、マナーである。
その上で、映画の価値を理解しておこう。映画とは、作品と作者からなる価値のことである。まず、一般的な認識の誤解を払拭する。
・著名人の作品は高額で上質
・無名な作家の作品は低額で価値なし
そんなことはない。本物のピカソのリソグラフは65万円から、NFTで販売された無名作家のデジタル画像は75億円で売買が成立している。名声と価格では、芸術の価値は特定できないのだ。
『 オンラインは世界 』
映画は、なお難しい。映画界最高権威の受賞作品よりも、初演のアイドル映画の扱いが大きく成果が高く、企業、投資家の注目を集める。
だがその認識は日本独自のものであり、通用しない時代にさしかかっている。映画は劇場からストリーミングが主流になり、プラットフォームとマーケティングはすべて、オンライン上。“オンライン”の多くは米国が管理運営社であり顧客は194ヶ国で情報を共有しているつまりそこは、「世界」なのだ。
映画は業界を越えていま、“世界”と繋がっている。
映画の真価は広告や販促の域を越えた“人間のメッセージ”を伝搬するためのプラットフォームであり、その使途こそがデファクトスタンダードである。
エンターテインメントが衰退し、社会派作品が爆増している理由でもある。
『 偽アーティストの功罪 』
情報シャワーを日常としてとスルーする力を備えた観客たちは、加速度的に進化している。かつて“考える”ことを専業としていた哲学者や創作者たちが制作費集めに奔走する間にも観客たちは、学び続けていた。
いま、立場は逆転しつつある。
資金集めに躍起な実力の無い“偽アーティスト”よりも、観客の方がよほど知的であり、SNSとプラットフォームに精通している彼らはすでに優秀な表現者でもある。“偽アーティスト”に、存在価値は無い。
だがもし偽物たちがこのまま気付かずに「映画」を汚したなら、弾劾されるだろう。それは、「マナー違反」なのだから。
映画には、力がある。それは、正しい者のためにある。
『 編集後記:』
ブルーインパルスが飛ぶ。
2度目の五輪を、東京の空に描くのだろう。
わたしたちはその時も地に足をつき、それを見上げているだろう。その瞬間は過去となり、記憶となり、想い出となり、歴史になる。憧れと羨望をもって、感謝と敬愛を捧げたい。
ひとびとに笑顔を届けられる彼らは美しい、本物の創作者である。
純粋と作為の果てにも正直に、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。
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