【作品への責任】アーティストは作品と共に沈む船長になれるか
作品は時に、未来のアーティストの袖を引く。その時あなたは作品を護るために闘えるだろうか。このトピックでは、「表現の自由とリスク」を、知ることができる。挑戦と向上を続けたいアーティストの、ために書く。
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アーティスト情報局:太一監督
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監督がスタジオから発する生存の記
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『 自由とリスク 』
“自由とリスク”は、両輪である。表現者は常に、そのバランスを生きている。だがどの程度、覚悟できているだろうか。「作品の未来」についてだ。オリンピック開会式を前に、複数の幹部が辞任、または解雇された。“過去の表現”に、袖を引かれた格好だ。他人事ではない。
“表現の自由”という聞き慣れた言葉には、罠がある。「(※ただし例外あり。)」というやつだ。まるでブラック企業の“無礼講”のように、気が抜けない。正しくは、「表現するのは自由だが、責任からは逃れられない。」と解釈すると誤解がない。
自由とリスクは、どちらを取っても怪我をする。それを獲るのが、創作活動。作品という船に観客を招き、大海へと出航するのが、アーティストである。
そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際ニュース:映画「アドレナリン:Crank (2006)」の共同監督ブライアン テイラーが、NFTマーケットに“短編映画”で挑む
Crank (2006)のブライアン テイラー監督がショートフィルム「Out!!!」でNFTマーケットプレイスに挑む
ブライアン テイラー監督は、NFTの市場が拡大しているのを観て、その流れに乗ることを決意した。「私のビジネスでは、何かで一番になることはほとんどありません。だから、だよ。このショートフィルムは、NFT最大のマーケットプレイスのひとつの“Open Sea”で、日曜日までオークションにかけられているよ」
テイラーは、ショートフィルムの本編に加えて、24の別テイク、アウトテイク、フルシーンをオークションにかけている。「購入者が決定したら、私はメディア、セッション、デイリーなど、すべてのオリジナルコピーを破棄します」と説明する。「買った人以外にはもう誰も所有していない、ということになるんです」このような“革新性”こそが、NFTとして映画を制作、販売するという壮大な実験において、テイラーが最も気に入った点だという。
少人数のスタッフで制作、期間は1週間。映画を作ること自体は、テイラーの映画製作者としての通常の目標を達成したようだ。
「クリエイティブな面での最大のモチベーションは、"最初の人になろう”、“これまでにないことをしよう "ということでした。映画を作る上での通常の障害が何であれ、それを回避する方法を考えようってね」
しかし、そこには問題もある。たとえば財政面では、映画の権利の入札額の下限を、映画が赤字にならないように設定して回避しようとしている。また、NFTでは興行成績や視聴率の数字が業界統計に記録されない。さらに、映画はできるだけ多くの人に観てもらおうとするものだが、本作の独占販売は、正反対となる。
「私たちは一攫千金を狙っているわけではなく、ただ面白いからやっているだけですよ」 - JULY 24, 2021 VARIETY -
『 ニュースのよみかた: 』
映画監督が短編映画を「世界初×斬新」の狙いから、“Open Sea”でNFT化。製作費と利益を含んだ最低価格を設定し、購入者には“全権利を譲渡”する、という記事。
酷い。手法としては勉強不足が過ぎ、明らかにラッキー価格狙いで、映画を軽んじた冒涜だと感じる。若きアニメーターの言葉を、想い出す。「作品に正解はないが、間違いはある」これがその、間違いだ。
先ず、短編映画のNFT化はとっくに“世界初”ではない。短編は無数、4月にはもう英国の長編映画NFTが成功している。またマーケットに“Open Sea”を選択する辺り、YouTube同様に誰でもエントリーを済ませられるための選択だとは公言していない。それとも、コネクションが無くてBinance NFTを活用できなかった、とは言えなかったのか。NFTを成功させるために必要なのは「クリプト界でのマーケティング力」だ。
何より、審査無く映画を一般人の手に売り払うこの監督は、作品への責任を放棄している。“映画監督”は船長同様、沈み去る時こそ最後の独りになるまで、映画と共に在るべきリーダーである。映画という我が子への愛は、どうしたというのだ。酷い。
『 責任への挑み方は、2種ある 』
「責任をとる」と「責任をとらせて貰える」だ。多くの人々が責任に対して、“罰”のような印象を持っている。だが国際的な成功者たちはむしろ、“責任を取らせて貰える”ことに喜びを感じている。若い頃には興味がなかったこの2つの違いには、アーティストにとても重要な意味があった。
両者の違いは、“アーティストの権利”に左右される。
『 受注仕事の、責任 』
受注仕事の中で創作活動を行っているクリエイターたちは、一切の権利を有していないことが常だ。著作者人格権など、まったく機能しない。ギャラをもらうなら、クライアントの希望に即するまでだ。その場合、作品に求められる責任は、“罰”にも匹敵するだろう。要請通りのクリエイティヴに尽力して権利無くしかし責任を求められたなら、不服も理解できる。わたし自身も25年間、受注仕事に生きた。だからこそ断言できるのだが、その人物は、アーティストではない。そして、全責任を負う義務はない。弁護士の出番だ。
『 責任をとらせて貰える、という価値 』
一方で、「責任をとらせて貰える」という状況こそが、興味深い。
国際的な成功者たちは常に、責任をとりながら生活している。それは、社会的なステイタスなのだ。“責任をとらせて貰える”という状況は、「責任をとるに値する権利を有している」という意味だ。
国際的な成功者たちは、受注仕事を選ばない。どれだけ高額なギャラを積まれても自身のブランドを安売りすることはなく、「全責任を負うに値する企画」だけに挑む。すべての責任を負える“実力”を有するために生き、全力で挑む。全責任をとらせて貰えるということは、“全責任を負う企画”の幹部を務めている、という証だ。
責任をとれる、それは成功者のステイタスである。
アーティストなら、作品と共に沈む船長でありたいはずなのだから。
『 編集後記:』
テレビは観ないが、BBC WORLD NEWSを流している。
いちいち、映像が良くできている。登場人物たちが自信に満ちており、それぞれの立場で輝いている。番組の製作者たちは彼らを、“作品”に収めたくなるのだろう。気持ちは判る。
名優のような貫禄の初老が、朗々と語っている。しばし魅了されていたが言語中枢を正してみれば、有罪の詐欺師であった。わたしは恐らく、カモ側だ。よかった。
責任には正直に、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。
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