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島原城訪問(2020/7/23)~壮麗なお城と松倉重政について考えてみた(その1)

天草・島原一揆の舞台となった原城跡を訪問後、島原城に立ち寄りました。

長崎で生まれ育った私にとって初めて見たお城は島原城であり、その白く美しい城郭に感激しました(当時小学生)。長じるにつれ、築城当時、島原藩4万石(後に7万石になるが・・)にしては城が壮麗すぎること、壮麗な城郭を作るために重税を課したことが天草・島原一揆の原因の1つであることを知りました。

その後、築城した初代島原藩主の松倉重政は、島原の前に入封した大和五條では「名君」として慕われていることを知り、大変疑問を持ちました。

「名君」と「(島原天草一揆の原因となった)稀代の暗君」が同一人物?

以下、考えたことをいくつか記したいと思います。

島原城天守(復元) 。破風のない造りで、国内で3番目に高いそうです。
4万石にしては立派です。
高石垣と堀(車中から撮影)
高石垣(車中から撮影)

1  城下町の開発

以前、友人の1人が指摘していたことですが、島原城の築城だけでなく、城下町の開発とセットで考えるべきかと思います。

1616年、大坂の陣の後に肥前国高来に封じられた松倉重政は、最初、前藩主である有馬氏の拠点であった日野江城に入ったそうですが手狭だったこと、支城である原城は断崖絶壁の上に建てられた天然の要害で、縄張り的に城下町を形成することができなかったそうです。
(原城跡を見てそうだと思いました。)
一国一城令が出された後の築城だったので、2つの城を捨て、新たに「沖田畷の戦いで有馬軍が本陣を構え龍造寺軍を破った縁起のいい場所」森岳に、1618年から7年をかけて島原城を築城し、城下町も整備したそうです。

なお、築城にあたり原城の石や材木を運んだと言われていましたが、原城跡のガイドさんの話では、近年の発掘調査で原城に使われた石と島原城に使われた石は全く違う産地の石だとわかったそうです。

遡ると、有馬晴信も日野江城が手狭になったため、新たな南蛮貿易の拠点とするため港に近い原城を整備したといわれており、日野江城が手狭であったことの裏付けになると思います。

2  お金の問題

4万石にしては立派過ぎるお城です。
前の藩主有馬家は、晴信の祖父、有馬晴純(仙岩)の頃は20万石相当の領地をもち、室町幕府より肥前国守護職にも任命され九州に一大勢力を築き上げましたが、次第に佐賀の龍造寺氏に圧迫され、江戸時代初期に安堵された石高は4万石とされています。しかしながら、原城の排水路に当時高価であった瓦が敷き詰められていたことや、晴信の嫡男直純が徳川家康の養女(血の繋がった外孫を養女にした)である国姫を継室にしていることから、単なる地方の小大名ではなく、相当な財力を有していたのではないかと推測されるのです。島原半島は火山灰が多く穀倉地帯とは言い難いので、財力の元は南蛮国をはじめとする交易だと考えられます。有馬晴信は東南アジアとの貿易の許可証である朱印状もたくさん貰っているので、有力な貿易家としても家康が目をつけていたのではないかと考えられます。

そして、この朱印船貿易に松倉重政も名乗りを上げているようなのです。

4万石にしては壮麗な城ですが、実際は石高以上に貿易で豊かな領国だったので新たな築城が可能だったのではないかと推測します。

長いので分けます。

島原城公式HPはこちらです。

*この記事は2020年7月25日のFacebookへの投稿を編集したものです。


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ひとみ
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