有馬家を救った徳川の姫~国姫(栄寿院)について (その2)
こちらの(その1)からの続きです。
4 岡本大八事件
1609年、マカオで有馬晴信の朱印船の乗組員とポルトガル人の間に殺傷事件が起き、怒った晴信は家康の許可を得た上で、翌年の1610年に報復として長崎に入港したポルトガル船「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」を攻撃、ダ・グラサ号は長崎沖に沈みました。これをきいた徳川家の重臣、本多正純の与力でキリシタンだった岡本大八が、有馬家の旧領であった藤津をその恩賞とするよう正純を通して家康に諮ると約束し、多額の賄賂を受けとりました。しかし一向に旧領回復せず、不審に思った晴信が本多正純に問い合わせ、事が幕府に露見。1612年、岡本大八は火刑に処せられ、有馬晴信は改易、甲斐に流罪の上切腹を命じられました。自殺を禁じるキリシタンである晴信は、家臣に自ら首をはねさせたと言われています。
本来なら嫡子直純にも類が及ぶところですが、家康に近侍し父と疎遠であったことと国姫を正室にしていたことを理由に連座を免れ、家督を継ぎ日野江藩主となります。
・正室を離縁して徳川の姫を正室に迎えた。
・徳川の姫を正室にしていたためお家断絶を免れた。
これらのエピソードには、あの大河ドラマ「真田丸」に登場した真田信之を連想してしまいます。同じ本多家の姫でもありますし。(信之継室の小松姫は国姫の伯母になります。)
5 キリシタン弾圧と日向延岡へ転封
1612年、幕府から出された禁教令に従い直純は棄教。領内のキリシタンを迫害し、父晴信と継室ジュスタの間に生まれた異母弟(フランシスコ、マティアス)を殺害。良心の呵責に耐えかねたのか転封を願い出て、1614年に日向延岡に5万3千石の所領を与えられ移封。国姫は日向御前(ひむかごぜん)と呼ばれました。
しかし従わずに土着した家臣も多く、彼らと小西行長の旧臣たちが、1637年に起きた天草・島原一揆の指導者となっていきます。
直純も、天草島原一揆の際は幕府軍の一員として出陣しています。
1641年、直純死去。8年後の1649年に国姫死去。直純との間に嫡男、康純をふくめ二男三女をもうけたので夫婦仲はよかったのでしょう。「康純」の「康」の字は、家康から偏諱を受けたものだそうです。
その後有馬家は、康純の次代、清純の代に越後糸魚川に移封、さらに越前丸岡へ移封され、1711年には譜代大名に昇格、丸岡藩主として明治維新を迎えます。
まさに「有馬家」が存続したのは国姫のおかげと言えると思います。
6 エピソード
・延岡市にある愛宕山という山は、かつては女人禁制の霊域でしたが、日向御前(国姫)が側近達の制止を振り切って登ってしまい、以来女性も参拝できるようになりました。「奥の院極天様」に残っている鳥居の笠木は、日向御前が奉納したものです。
・日向御前は美人ながら身体が大きく武芸に長けていたため、延岡では「お転婆娘」のことを「日向御前」と呼ぶことがあるそうです。
・延岡の城影寺には日向御前が化粧に使っていた水が湧き出る池があり、その池の水で化粧をすれば美人になれる、と言われているそうです。
7 黒エピソード
この国姫、美人で武芸も達者だったそうですが、なんと「胸毛があった」と有馬家関係の史料(「国乗遺文」)に書かれてあるそうで・・。同じ女性としてそれは事実であったとしても書いてほしくないと思いますが、当時の価値観は現代とは違うのかもしれませんね。しかしながら、美人で気が強かったのは本当なのかもしれません。
では、最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました。
*この記事は2020年8月3日のFacebookへの投稿を加筆・修正したものです。