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『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』謎に耐えるとは、可能性への信仰である

『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』(『福田恆存全集』第二巻 収録)はいずれも昭和二十七年に発表された。

これらの文章は、一貫して、一つのことを主張しているように私には思える。それは「謎」に耐えることの重要性である。

「謎」とは何か。同じことが、『理解といふこと』の中では、「理解しえぬ部分」や「誤解」という言葉で表現されており、『告白といふこと』『自己劇化と告白』の中では、「悪」という言葉で表現されている。

謎に耐えきれない弱さは、生を枯渇させていく。誤解に耐えきれない弱さや、悪に耐えきれない弱さも同様である。

たとえば、自己や他人にたいする「誤解」に耐えきれない人間はどうなるだろうか。福田は言う。「相手のうちの理解しえぬ部分にたいする敬虔な感情を失ひ、相手をむりやりに自分の理解のなかに閉ぢこめてしまはうとする」のだと。(『理解といふこと』)

また、たとえば、「悪」に耐えきれない人間はどうなるだろうか。福田は言う。「いつの時代にあつても、建設と秩序の維持とには、その根底に悪が必要であり、また結果として悪を生んできた」ということがどうしても分からず、弱い潔癖感から安易な告白を繰り返すはめになる。その結果、「創造の根を涸らし、自己を稀薄化」することになるのだと。(『告白といふこと』)

人は、謎に耐えきれぬ弱さのゆえに、己の生命力を減退させていく。

なぜならば、「謎」に怯えた人間が、「謎」を一掃しようとしてすがりつく「理解」や「告白」という美徳は、それが安易な逃げ道である限りにおいて、一定の外部基準の容認に他ならないからである。

「われわれが自己の行為について告白するとき、われわれは同時に、その行為を悪と見なす規範のまへに膝を屈してゐるのだ。悪にたへるといふことは、世のあらゆる規範にたいして判断保留をすることである。」

『自己劇化と告白』福田恆存全集第二巻

つまり謎に耐えることは、もしくは悪に耐えること、誤解に耐えるということは、開かれた可能性をとことんまで信じ切るということに他ならない。

「かれらは悪を犯すかもしれないし、犯さないかもしれぬ。どちらでもいいことだ。ただ、かれは自己のうちの可能性にたいして、まづ誠実であり、そしてそれをひそかに育てる。そのために、かれは自己を秘めねばならない。世間が恐しいのではない。可能性を大切にするからだ。」

『自己劇化と告白』福田恆存全集第二巻

福田はよく、「自己より大いなるもの」や「自己を超える大いなるもの」という言葉を使う。「神」という言葉を使うことによって特定の宗教臭がすることを避けての言葉選びであろうが、その文章を読めば読むほど、福田恆存という人間の中には深い信仰心を感じてやまない。

福田の信仰は、特定の宗教や宗派とは関係がないものだ。だからこそ、背筋が正され高揚すると同時に、足が地面に戻されるのだ。同様の感覚を、私はゲーテを読んでいるときにも覚える。

それは特定の宗教を超えて、自己を超える「可能性」を心底から信じている人間だけに感じるダイナミズムである。

彼らの背後には、彼らを超える大いなるものがある。彼らはそれをただ、「謎」のまま、背中で感じて恐れない。

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