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ゲーテと釈尊

 言葉は、人間がつくりだしたものである。だが、決して意識的につくられたものではない。それは歴史の中で、必要に沿って、自然に育ち、徐々に養われ、形を変え、いつしか逆に、人間を形づくってきたものである。



『法句経(ダンマ・パダ)』という書物がある。釈尊の死後、彼の言葉を詩の形にして集成した詩華集である。

先日、ふとしたことがきっかけで、この書物を手に取ることがあった。最初のページから順に読んでいき、暫くして下の詩句に突き当たった。

精進(はげみ)こそ不死の道
放逸(おこたり)こそは死の径(みち)なり
いそしみはげむ者は
死することなく
放逸(おこたり)にふける者は
生命(いのち)ありとも
すでに死せるにひとし

『法句経』友松圓諦

私は、しばらくこの本を机の上に置き、もの想いに耽った。とにかく不思議な心持ちであった。かねてから敬愛する詩人ゲーテの姿が、釈尊の言葉の向こうにうっすらと重なって見えたからである。

釈尊とゲーテ、私の頭はしばらくの間、この二人の人物の影に占領された。

考えてみるに、大きく時代を隔ててはいるが、この二人の人物が、似たような言葉を残していたとしても、なんら不思議なことはない。釈尊は悩み、ゲーテも悩んだ。そうして、同じような高みに至り、同じような言葉を述べた。こういう説明は、聞く側に、なんの疑問も残さないように思える。

彼らの各々特殊な悩みは、人類の普遍的な悩みでもあったために、彼らが血みどろになりながらようやく見出した解は、また自ずと普遍的な解となった。

我々は、偉大な先人たちと、一瞬間、同一化することで何かを学ぶ。釈尊は私でもあり、ゲーテは私でもある。そんな風にして、私は、何かを学ぶ。釈尊の言葉が、ゲーテの言葉と重なって聞こえたとき、私の無意識は彼らと同一化しようと求めていた。これを可能ならしめたものは、ひとえに、私のこれまでの悩みであり、生活であり、私の過去の集成である。

当然ながら私は、釈尊の境地にも、ゲーテの境地にも、まだまだ遥かに及ばない。しかし、少なくとも一部では、釈尊とつながり、ゲーテとつながることができるのだ。

遂に私は、私の境地を見出すかもしれないし、遂に見出せず、無惨に息絶えることになるかもしれない。そんなことは、生きてみるまで分からない。

星のごとく
急がず、
しかし、休まず、
人はみな
己(おの)が負い目のまわりをめぐれ!

ゲーテ

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