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『私小説的現実について』理想人間像の欠如、すなわち社会に迷惑をかけなければそれでよい国
この論文において福田は、理想人間像を持たない日本において「真実」とはなにを意味するかを問う。
初めに福田は、私小説を擁護する立場を表明する。だがそれは我々の歴史的必然性を強調するためであると付け加える。
「誤解をふせぐために、ここにあらためてことわつておくが、ぼくの私小説擁護は私小説、あるいは私小説作家のためではない。私小説をぼくたちの文学の本道たらしめたぼくたち自身の必然性を強調したいのにすぎぬ。」
福田がここで話しかけている相手は、日本の私小説とヨーロッパの文学とを比較して、日本の文学を二流の文学だと主張する文学者たちである。
彼らに対して福田は、日本の私小説を二流だと安易に切り捨てることの過ちを指摘している。なぜなら我々が私小説を文学の本道としたのは我々自身の必然だと福田は考えているからだ。
「そして今日のぼくたちの体内になほこの潮流の断ちがたき力をさとつたならば、それを軽軽に否定しさることが現代文学にとつてなんら目あたらしい道標とはなりえぬことを思ひ知らねばならない。」
ではなぜ我々は私小説を文学の本道としたのか、せざるを得なかったのか。
結論から言えば、我々が唯一神の存在を —— 言い換えれば、理想人間像というものを持たないからである。
「ぼくたちはヨーロッパの近代と日本の近代とのあひだに横たはる越えがたい大きな溝を看過してゐるのである。」
「それは唯一神を奉じた中世ヨーロッパと文化政策的な儒教倫理にすがつた徳川幕府との相違にほかならない。」
福田の言いたいのはこうだ。明治維新は徳川時代の儒教倫理を破壊した。その結果、当時の国民は善悪・正否の判断基準を失った。一方で、ルネサンスは中世から唯一神を継承した。ゆえに理想人間像を基準とした善悪・正否の判断も継承された。
「ここにぼくたちは宗教と文化政策との差をつくづくおもひみるべきであらう。」
明確な理想人間像を持たない日本には、私小説的現実しか存在しようがなかった。そこに普遍的な「いかに生くべきか」の解答を提示する文学は存在しようがなかった。
「明確な理想人間像なくして、いかに生くべきかの問ひはいつたいどんな解答を予期しうるであらうか。それは作者の個性に応じた処世法の提出に終りはしないであらうか。」
「なぜならぼくたちの社会には各人がそれぞれの環境において各様に処世すること以外に人生の真実などといふものをどこにも見いだせぬからである。」
このように福田は、日本における理想人間像の欠如を指摘し、それゆえに私小説的な現実しか見出せない日本文学の現状を憂える。
だがそれを踏まえても、福田は決して安易に、理想人間像を持てだとか、万人の真実を語れだとかいうような軽々しい言葉は口にしない。
反対に福田は言う。二流に徹しろ、絶望に徹しろと。
「ぼくにとつて二流に徹するといふことは、私の真実に徹することであり、そのかぎりにおいて、私小説的文学以外なんの真実もありえぬといふぼくたち日本人の絶望に徹することを意味するにほかならない。ぼくたちの現実が変わらぬかぎり、ぼくたちは執拗にぼくたちの絶望を固執しなければならぬ ー もし希望といふものが生まれうるなら、それはまさにこの絶望のうちからである。」