科学は飲んでも科学に飲まれるな⑦参政権と兵役(戦う責任)の関係性
最近気がついたことがある。
歴史的に、参政権と兵役は基本的にセットだと考えられてきたということだ。「政治に参加したいのなら危機に際して戦う責任を負え」、それが一つのスタンダードな価値観として、古代から近代にかけて通底している。
もちろん、昔は政治的権力者と、富や武力の結びつきがより強く、莫大な戦費を賄えるのは必然的に政治的権力者だけだったという側面はあると思う。
また、現代の高度に機械化した戦争においては、戦争の質が昔とは根本的に違うという事実もあるだろう。そのため一概に昔の価値観と現在の価値観の優劣を比べることはできない。
しかしながらともかく、戦後、平成の日本社会に生まれた私は、上のスタンダードな価値観とは全く違う価値観の中で育ってきたのは確かである。
生まれたときから、成人になれば自動的に参政権が与えられることは保障されていた。が、その代わりの兵役の義務は課されない。そのため参政権と兵役の間に歴史的に緊密な関係があることに、気がつかなかった。
だからこそ、一方で参政権を保持しながら、他方で危機に際して他人任せな態度が、いかに人間を堕落させるかをも知らなかった。
私はなにも、だから兵役を復活させろだとか、そんな短絡的なことを主張したいわけではない。
社会の中で自由に生きるには、「参政権と危機に際して戦う責任がコインの表裏の関係にあるという認識」が必要なのではないかと思ったのである。
もちろん偏狭なナショナリズムは全く支持しないし、できれば私はコスモポリタニズムの精神で生きたいと常々願っている。
だが私がナショナリストであろうと、コスモポリタンであろうと、実際の危機はいつでも、半径5mの範囲で起きるものだろう。その危機に際して他人任せでは、半径5mにいる大切な人たちをすら守ることができない。
「独立の精神が大切だ」と偉大な人々が口をそろえて言っている理由を、今になってようやく合点した。
科学や合理性を政治システムや法律に応用していくことは重要だろう。それは個人や国家の安全をある程度保障してくれる。
しかしその成員の一人ひとりに肝心の独立の精神が欠けていては、社会全体は科学や合理性に飲まれて堕落するだけだろうと思う。
特に古代ギリシアの人々は、かれらの栄光と挫折をもって、自由を守るためにはその精神の必要不可欠なことを教えてくれているように思う。