収容所としての施設〜リハ職の課題は?〜
施設とはWikipediaによると「社会生活を営む際に利用する構造物、建築物やその設備。国民の生活向上に必要な公共施設を社会資本・インフラストラクチャーなどという」とされている。ここでは「社会資本」と示されているが、他方「施設性」というキーワードで検索すると、虐待などネガティブな意味が散見されることが印象的であった。
施設の機能分化においては、各専門職の専門性の向上があるとされている。しかし、近年は各専門職の資格化による学問の喪失が加速している。資格化するとは政治的に言えば官僚的、手続き的と言い換えられ、マニュアル化することである。それは制度においても役割の縦割りを強め、横の連携が不足するという問題が生じる。
収容所としての施設
病院と施設、共通するのは「収容所」である。相模原津久井やまゆり園事件はそれを再認識させた。収容所はそもそも本人の為に作られたものではない。家族や周囲の人の利益、ひいては国家の利益のために作られた場所である。そのようななかで、職員と利用者の対等な関係はあり得るのだろうか。
人間的な交流より管理が優先され、その為利用者、職員ともに「ルール」が設けられる。職員はそれを守ることが仕事だと思うようになり、ルールを守らない利用者(患者)は職員から困難事例とされ、敵視される。どのようにルールを伝えるか、守らせるかに重心が置かれ、職員はまるで看守のような存在となる。
社会に潜在している思想 〜津久井やまゆり園事件〜
2016年7月、相模原殺傷事件(津久井やまゆり園事件)が起こった。加害者は「重度の障害者には生きる価値がない。社会に不幸をもたらすことしかできない」と主張した。そして「障害者施設に勤務してわかった。心失者は社会を不幸にする。私は結果を出した。あなたはどんな解決策があるのか」とも述べている。
加害者ははじめからそのような主張をしていたわけではない。元々は入居者へ暴力行為をした先輩職員に憤慨するような人物であった。施設で働いてきた過程で、前述した思想が強化されていったのだ。周囲の人はどのように、彼を見ていたのだろうか。
結局のところ、施設とは「人」である。そこにいる人たちによって全体の雰囲気は如何様にでもなる。施設とは単なる「箱」ではなく、複雑に絡み合った社会の縮図が表現されているようにも思う。施設は支援の目指すべき理念の方向性に向かえるのか、それとも逆行してしまうのかが問われているのではないか。
閉鎖性からの脱却
施設の構造的問題を津久井やまゆり園事件は私たちに突きつけた。施設を一概に批判はしないが、一定程度批判的に議論することは必要だと考える。とりわけ日本の施設はその閉鎖性に問題がある。施設という「箱」の中は外側の人間からは見えづらく、ベールに覆われてしまう。脱施設よりも脱閉鎖を目指し、開放性を高め、外から見える風通しの良い構造が必要である。でなければ、ポジティブな施設ではなく、ただの「収容所」として機能してしまう。
施設の中が社会から疎外されることにより本人の自由の制約や管理の範囲は拡大しやすい可能性がある。施設の閉鎖性が強化されることは社会からの孤立を意味し、それは人権侵害、とりわけ暴力など虐待の温床となり得る。適正な基準で受け皿となるため、まずは本人の判断が主張されやすい暮らしを考える必要がある。私個人の感覚だが、精神科医療をフィールドにしているため、精神障害者、認知症患者は自分の意思で入院、入所することは稀であり、誰のための施設であるか再考しなければならない。
リハビリテーション職の向き合うべき課題
最後に私は「リハビリテーション」に軸足を置いているため、その立場から施設内のリハビリ、訓練について述べていきたい。リハビリテーションに関連する病院や施設等では、多様な治療プログラムが実施される。それらのプログラムの目的はあくまで、対象者個人が地域生活の中で実現できることである。しかし、Aleg Kopelowicz等(2006)は論文のなかで、技能の般化について、30年以上の間、測定した複数の研究が示したことは、般化の力についてはほとんど期待できないというものだった。つまり、施設の中でしたリハビリテーションは、地域生活には般化されづらいということである。