情動の理論
「ダーウィンの感情論」は以前紹介したことがあるが、今回は関連して「ジェームズ=ランゲ説」という情動学説を紹介しよう。
「ジェームズ=ランゲ説」というのは、19世紀後半にアメリカの心理学者でプラグマティズム哲学者のウィリアム・ジェームズと、デンマークの心理学者 ・ 生理学者のカール ・ ゲオルグ ・ ランゲがほぼ同時に提唱した情動学説である。(じつはウィリアム・ジェームズという人は「進化論的な心理学者」といわれており、とくに、ダーウィンの感情論はジェームズらの先駆をなした理論だとされている)
次のような説である。
たとえば今、なにかこれまで見たことも聞いた事もないような恐ろしいものが、突然目の前に現れたとしたら、まず心に恐怖がこみ上げ、つづいて体が震える行動が続くと普通は考えられている。つまり、
恐怖の対象の知覚→ 怖くなる→ 震える
という順序だと思っている。しかし彼らの主張によると、この順序は間違っているというのである。彼らによれば、
恐怖の対象の知覚→ 震える→ 怖くなる
という順序だとするのである。
「私の理論では、身体的な変化は刺激となる事実の知覚の直後につづいて起こり、そしてその身体的変化が起こるときに(心に)感じることこそが情動である。―――私たちは泣くから悲しく、殴るから怒り、震えるから恐れるのである」(W ・ ジェームズ)
まず最初に身体的な変化や運動が生じ、それによって情動が感じられてくるという順序である。つまり流した涙が悲しみを生み、身体の震えが恐れを生み、こぶしを振り上げるから怒りが高まる、というわけである。とくにランゲは、情動としての怖いとか悲しいとかいう感じは、内臓や胸のあたりの身体的 ・ 生理的感覚そのものであり、心的なものだとは考えなかったほどである。
だが、身体の生理的な変化や運動が、どのような過程を経て意識に上ってきて主観的体験・情動として感じられるのかというメカニズムは、科学の言葉で論理的に説明することができない。なぜなら、精神(心)と身体の間には、越えることのできない間隙(クレバス)が存在するからだ。
コンラート ・ローレンツは、 「生きている主体=身体と、 体験する主体=精神(心)」 が同一のものであることを強調しながらも、 それらの間には、 われわれの科学知識によっては越えることのできない間隙が存在しているという。 彼はいう。
「心―身間隙は架橋されえない――たとえわれわれの知識がどれだけ増大しても、 心-身問題の解決に近づくことはないだろう。(心的)体験の自立性は原則的に化学的、物理的法則によっても、神経生理学的機構の非常に複雑な構造によっても解明されえない」
心的体験の基礎が生理的身体的運動にあることはまちがいないが、 それらがあまりにも異なる性質のものであるため、 その同一性は科学の視点から客観的・論理的に捉えることができないのである。そこでローレンツは、科学の言葉ではなく、文学的な比喩によって説明する。
ローレンツによれば、身体内の生理的運動のすべてが意識に上ってくるわけではなく、その一部が意識に上ってくるのだという。彼はそのプロセスを、軍隊における情報伝達のシステムにたとえて次のように説明している。
たとえば、前線の二人の兵士が腹痛を訴えていると伍長に報告があった。伍長が小隊長に報告すると、小隊長はほかの伍長からも聞いて何人かの兵士に腹痛が出ていることを知っている。小隊長は大隊長に料理に不手際があったらしいと報告する。大隊長は料理係の兵隊がまずい仕事をしたと将軍に報告する。
このように身体の生理的運動のごく一部が単純化され、濃縮化され、重要度を高められた情報となりながら意識に上ってきて主観的体験になるのではないかと彼は考えるのである。彼によれば、情動というのは重さや距離を認識することと同じく、外的、内的な現実についての情報の報知なのである。
(参考文献)
・K・ローレンツ「自然界と人間の運命 PARTⅡ:生存への諸問題をめぐって」谷口茂訳、思索社
・K・ローレンツ「人間性の解体・第 2 版」谷口茂訳、新思索社
・K・ローレンツ「生命は学習なり:わが学問を語る」三島健一訳、思索社
・K・ローレンツ「鏡の背面:人間認識の自然誌的考察」谷口茂訳、思索社
・藤永保ほか監修「心理学辞典」丸善