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【解題】1998年のミルトン・フリードマンへのインタビュー (R.E.パーカー「大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたのか」に収録)

1910年代前後生まれのアメリカの大御所経済学者たちへのインタビュー集。有名どころでは、ポール・サミュエルソン、ミルトン・フリードマン、チャールズ・キンドルバーガー、アンナ・シュウォーツ、ジェームズ・トービン、ワシリー・レオンチェフへのインタビューが収められている。本書のミルトン・フリードマンへのインタビューが抜群に面白かったので紹介しよう。

経済学者たちを救ったニューディール政策

ケインズ経済学を攻撃したフリードマンであったが、ニューディール政策は経済学者たちにとっては「神からの贈り物」と評価はしている。

ケインジアンvs非ケインジアンの区別が意味を持つのは、1930年代後半になってからです。少し観点が異なりますが、もっと重要なことです。それはニューディールが経済学者にとって神からの贈り物であったということです。それは私たちに仕事を与えてくれたのです。(中略)ニューディールが潜在的な仕事源となり、ワシントンに就職口が生まれたことは私達みんなにとって実に助けになりました。(P.51)

当時のシカゴ大学の情況について

後年では、「新しい古典派経済学」の牙城としてよく知られるシカゴ大学であったが、フリードマンが言うには、戦前のシカゴ学派は大恐慌時に政府の赤字支出を政府に勧告していたようである。

景気が非常に悪化した1930-31-32年に、シカゴ大学の教授たちが議会や連邦準備制度などに送った、一連の覚書がすべて残っています。その中で彼らはまず、金融緩和を、次にマネーサプライ増加の手段として、政府の赤字支出を勧告しました。銀行は準備が増えても貸出を増やさないから、公開市場操作ではうまくマネーサプライを増加させることはできないというのが一般的な見方でした。しかし、政府を赤字にし、その赤字を貨幣の印刷で賄えば間違いなくマネーサプライを上手く増やすことは可能でした。彼らは実質的にこのような政策手段を考えていました。ジィコブ・ヴァイナ、フランク・ナイト、ヘンリー・サイモンズ、ポール・ダグラス、ロイド・ミンツそれにアーロン・デイレクターといった人たちすべてが、この立場を表明する宣言書に署名しました。 (P.53)

ただ、この部分はヘリコプター・マネーを唱えているフリードマンが自身の権威付けのために言ってるのではないかと少し邪推してしまう。ここのところはクロスチェックが必要だと思われる。

『米国金融史』について

後にテミン、キンドルバーガー、アイケングリーンなどから「一国史観」として批判されるフリードマン=シュォーツ『米国金融史』ではあるが、フリードマンは当時のフランス銀行総裁の回顧録を読んで書き直す点があると認めている。本書に収められているインタビューにおいて、テミンらの批判に対して一切妥協しない共著者のアンナ・シュォーツとは対照的である。

(フランス銀行の総裁だったエミール・モローの回顧録を読んで)もし、あの本を今書き直すとしたら、もう少し違った説明をするだろうということです。つまり、あの大収縮と世界的不況はフランスとアメリカの共同責任である、と書くでしょう (P.57)
フランを過小評価する形で金本位制に復帰したフランスは金本位制を維持しようとし、同時にインフレを避けようとしました。これを是正する唯一の方法はインフレでしたが、フランスは二つの矛盾する目標を達成しようとしたのです。そのことによってフランスの金融圏に入る中央ヨーロッパのすべての国は非常に大きなプレッシャーを受けました。その結果、これらの国はフランスへ金が流入し、困難な状況に陥ったのです。このようなフランスの状況は、オーストリアのクレデイト・アンスタルトの倒産と大きな関係があるのです。以上のことから、金本位制を維持しようとしたことが、大恐慌をあのような深刻かつ広範なものにしたのだと言えます。(P.58)

大恐慌を終わらせたのは何だったのか?

このインタビューで最も読み応えがある箇所であろう。フリードマンは「大収縮」と「大恐慌」を分けており、「大収縮」を終わらせたのは、ルーズベルトの一連の金融政策であったが、「大恐慌」を終わらせたのは、第二次世界大戦とそれに伴う軍事支出と断言している。

それは大恐慌の定義の仕方によります。私たちが著書の中で述べているのは、大恐慌ではなく、大収縮です。大収縮を終わらせたのは、銀行休日、金本位制からの離脱、金購入計画、銀購入計画など、ルーズベルトのとった一連の金融政策であるのは間違いありません。これらのことが大収縮を終わらせました。1929-33年の期間と1933-41年の期間を同じように考えることはよくありません。景気拡大は1933年に始まり、それは1937年までかなり続きました。(P.60)
NRA(注:全国産業復興法。国が産業の統制を行った)のために景気拡大はかなりの程度阻害されたと私は信じていますが、1937年には支払準備率を2倍にするという重要な金融問題が新たに発生しました。マネーサプライを見てみると、それは再び減少に転じ、1937年から1938年には収縮が起こりました。1937年時点では、生産と産出高水準はまだ1929年水準には戻っておらず、失業率は依然高いという議論がなされていました。失業率の数字にはいくつかの疑問点があります。PWA, WPA, 国土保全青年隊で雇用されている人々をどのように取り扱うかという問題があるからです。もし彼らを有職者としてカウントすれば、失業率の推定値はもっと下がります。しかし、そのようなことを考慮したとしても、第二次世界大戦になるまで決して完全な繁栄はありませんでした。(P.60)

「大恐慌を終わらせたのは何か」という質問に対する通常の解答は、第二次世界大戦と政府の軍事支出です。政府の軍事支出は紙幣の印刷によって賄われたという意味で、正しいと思います。実際、ある意味では、大恐慌ーあなたの呼び方に従いますーを終わらせたのは、赤字支出を行い、それを紙幣印刷で賄うという、サイモンズ/ナイト/ヴァイナ/ダグラスの提案を応用したことだと言ってよいかもしれませんね。(P.61)

マネーサプライ政策に未だに執着するミルトン・フリードマン

「私たちの経済が非常に安定しているのは、かなりの程度まで金融および物価の安定のおかげだと思います。それはおそらく、連邦準備制度がその歴史上最良の政策を行っているからでしょう。」と近年のFRBの金融政策を褒めた後で以下のように述べている。

マネーサプライを目標にする政策は駄目になったかもしれませんが、しかしマネーサプライの増加に注意する政策は決して駄目になってはいません。 (P.65)
もし過去20年間にわたってマネーサプライを安定した率で増加させていたなら、経済状況は今と同じかもっと良くなっていたと思います。ですから、マネーサプライ目標が間違っていたとは決して思いません。しかし、現実問題としては、貨幣目標は廃れてしまいまし、採用される予定もありません。(P.66)

終始、マネタリズムの教義に忠実であったフリードマンの姿が垣間見れて面白い。また、次の文章で、インフレ・ターゲットは「怪しげなもの」としてバッサリと切り捨てている。「金融政策ができること」、「金融政策ができないこと」の峻別は1968年のフリードマンの講演『金融政策の役割』から唱えられており、その点は終始一貫していると言えよう。

それに代わって、インフレ目標という怪しげなものを採用しようとしています。今の私たちはかなりノー天気です。だって、中央銀行の持つ物価安定維持能力に対して、その実力以上に大きな信頼を寄せているからです。ですから、あとでガッカリすることになるでしょうね。(P.66)

フリードマンは「リフレ派」だったのか?

飽くまで「インフレ率」ではなく、「マネーサプライ」を目標とすべきと述べて、インフレ・ターゲットを「怪しげなもの」として切り捨てるフリードマンは本当に「リフレ派」の範疇に入れていいのかどうか? このインタビューを見る限り、否であろう。昔、リフレ界隈でフリードマンはリフレ派の範疇に入れられていたが、完全な誤謬であると思う。

このインタビュー集は他にも色々と見どころがある。今では絶版なのが惜しい。もし図書館にあるのなら是非とも読んで頂きたい。

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