【地域のいいところを知る 体験するプログラム 3】多賀町の神社とお寺の江戸時代は?
地域のいいところを知る、体験するプログラムの3は、多賀町の神社とお寺の江戸時代についてです。 文化遺産プランニング代表の井上ひろ美先生にお話いただきました。
滋賀県多賀町では令和5年度から3年計画で、町内の歴史文化自然の調査を実施しています。
これからのまちづくりやひとづくりのために、地域の特色を調査・記録して、地域の課題とも関係づけ、新たな価値を創出します。
1.江戸幕府の宗教政策 キリスト教の伝播と弾圧
江戸時代、国としてどのように宗教政策が運営されていたのか、
キリスト教をどう扱うか?どのように問題課題をしていったか、お話をします。
(1)キリスト教の伝播
1549年(天文18) ザビエルが鹿児島に到着
1559年(永禄2) ガスパール・ヴィレラが足利義輝と会見、翌年キリスト教布教許可の制札を獲得
(書類がないと公に許可されたことにならない・・・。幕府として許可していく)
1563年(永禄6) 大村純忠(肥前)が洗礼を受け、最初のキリシタン大名となる(キリスト教の布教スピードは早く、大名から一般民衆への広まっていく)
1565年(永禄8) 正親町天皇がバテレン追放令をだす(同12年にも)。京都からバテレンを追放、教会が破却される(バテレンはキリスト教の信者)
1580年(天正8) 織田信長が安土にセミナリヨの建設を許可
(2)豊臣秀吉のバテレン追放令
天正14年(1586) 秀吉がイエズス会に布教を許可
天正15年(1587) キリシタン大名高山右近の領地を没収
秀吉がイエズス会日本準管区管区長ガスパール・コエリョに五か条の定を出す:施薬院全宗(やくいんぜんそう)筆
(キリスト教が力を持ちはじめた怖さは、時代として脅威があり、仏教と神道を守るためにも・・・。)
➡民衆の個人意志による信仰は自由、大名は秀吉の許可を得る
天正17年(1589) 秀吉が京都南蛮寺(四条坊門通室町姥柳町)など畿内肥前53ケ所破却。
(妙心寺の鐘は、ハカマの裾が広がったベル型の鐘)
➡秀吉によるキリスト教弾圧の本格化
キリスト教を信仰する人々に改宗を命じ、拒否する者は死罪。
慶長元年(1596) イスパニアのサン・フェリペ号漂着。
長崎で宣教師、信者26名が死罪(十字架に磔)となる。
(3)徳川家康の禁教令
・慶長17年(1612)3月21日
京都、江戸、駿府、長崎など幕府直轄地に対し禁教を布告。信者を摘発。
・慶長18年(1613) 秀忠名でバテレン追放令(伴天連追放之文)を全国に公布
「キリシタンが日本に来たのは、通商を通じて邪法を広め、従来の神仏信仰をまどわし、この地を自分たちのものとしようとしたからである」
(商売は関係ないと言ったものの・・・)
➡禁教を国是とした厳しい弾圧が始まり、キリシタンは棄教を強要され次々に転宗(ころぶ)
(古文書にひらがなで「ころひ」「ころぶ」と出てくるのは、転倒の「転ぶ」ではなく、宗派を変えることを言う。)
・寛永14年(1637) 肥前で島原の乱。37,000 人(27,000 人とも)。
4か月にわたり交戦、鎮圧から1年半後に「鎖国」
(京都国立博物館の正門入って左に、庭園仏石などがある中に、江戸時代のキリシタンのお墓がある。京都市内にあったものが移築されている。また、京都大学内博物館にも並んでいた。)
(4)武家諸法度
・寛文3年(1663)
家綱が武家諸法度を改定し、キリスト教禁止の諸国での徹底 「一、耶蘇宗門之義、国々所々弥堅可禁止之事」
(5)類族改制度
・貞享4年(1687)成立
・棄教したキリシタンの子孫を監視するもの。
(「ころんで」別の宗派になった家族を監視する。)
(6)訴人報償制
・犯罪に関する密告を奨励する制度である嘱託銀のうちの一つ。
・1618年頃、長崎奉行長谷川権六がキリシタン弾圧のため、銀を報償として情報を密告することを奨励
・1633 年 鎖国令制定の際、幕府の制度とする
➡宣教師の情報は銀100枚、40年後には500枚
(地方、長崎奉行の制度だった嘱託銀を幕府が採用)
(7)キリシタン制札
・キリシタンを禁止すること、また信者の情報を申し出た者に報償金を払うこと、隠しており他から話があった場合には、名主および五人組の連帯責任とすることを記す。
バテレン:宣教師 イルマン:宣教師 バテレンより下位
2.江戸幕府の主な宗教政策・制度-寺院編
(1)檀家(寺檀)制度
・慶長17年(1612)のキリシタン弾圧の際、転宗したキリシタンに対して寺請証文を作成させたのが始まりとされる。
・特定寺院に檀家として所属することで、葬祭供養の一切を任せること。
・室町時代に存在した同様の関係性を、対象を一般民衆として制度化。
(2)寺請制度
・寺院が檀家であることを証明させる制度。
キリスト教徒、不受布施派でないことの証明でもあった。
➡寺請証文・寺請状・宗旨手形
(3)諸宗寺院法度
・寛文5 年(1665)7 月、徳川家綱朱印状「定」と老中連署下知状「条々」からなる。
【定】
①諸宗法式の遵守
(ルールを守りましょうね)
②住持(ジュウジ)の一宗法式を知る義務と新義禁止
(住持=住職)(新しく教えを作ってはダメ)
③本末の規式の遵守と本寺の末寺に対する理不尽な処置の禁止
④檀越の寺院選択権
(檀越=檀家)(一つの在所に沢山お寺があるなか、選ぶことができる権利)
⑤徒党・闘諍(とうじょう)や不似合の事業の禁止
⑥国法違反者の身柄引き渡し義務
⑦寺院仏閣修復時の美麗禁止と仏閣の掃除
(派手派手しいことはダメですよ。しかし、掃除はしましょう)
⑧寺領の売買・質入れの禁止
(お寺経営のためにやったらダメ)
⑨むやみな出家の禁止
(お坊さんが増えると大変なので)
【条々】
①僧侶の衣体(えたい)と仏事作善の儀式を分相応にすること
(作善・・・徳を積むこと)
②檀那が建立した由緒を持つ寺院の住持は檀那が取り計らうこと
③金銀による後住契約の禁止
(後住・・・跡継ぎの住職)
④在家を借り仏壇を構えて利得を求めることの禁止
(家で仏さんを祀るのはダメです)
⑤寺院・坊舎に女人を置かない。従来からの妻帯(真宗など)は例外
(4)本末制度
・寺院組織を政治の末端に組み込むためのもの。
・元和元年(1615)7月までに、家康が各宗本山・本寺に諸宗寺院諸法度を布達する。
➡宗派内での本山・本寺の地位を保証、末寺の編成、教団秩序の統制を図る目的。
(浄土真宗の武力が記憶にあるなかで、幕府はよく考えた!!)
・寛永8年(1631) 新寺建立禁止令
(これまでに、まあまあの数のお寺が建っている・・・)
・寛永9年(1632) 末寺帳提出を義務づける
(本山に対して末寺がどこかわかるように載せてリスト管理をする)
➡ここに記載されている寺院のみが、寺請寺院となる
(5)宗門改
・元和2年(1616) 土佐藩で宗門改が実施され、庄屋が改帳を提出(~寛永3年)
・宗門改を下達したことで、全国で寺請が制度化
・寛文5年(1665)、幕府が諸藩に宗門改帳の作成を命じる
・寛文11 年(1671)、宗門改帳の毎年の作成を命じる
(藩を巻き込んでの宗門改)
・「宗門人別改帳」 宗門人別帳、宗旨改帳、家別帳、宗門帳などと呼ばれる。
(今ある宗教の在り方は、江戸時代から続いているシステム)
・中世以来、各宗本山が有していた政治的・経済的特権を取り上げる
・末寺住職の任免権は本山が保有すること
・末寺は本山の命令に絶対服従すること
・宗派の教学・修行の場は本山が提供し、一定期間の服務を義務づけること
・僧階の格付けは本山の権限とする
多賀町久徳のお寺に、年齢は記入されていないが、下書きが残っている。
3.江戸幕府の主な宗教政策・制度-神社編
(1)諸社禰宜神主法度
・寛文5年(1665)7月 神社の禰宜・神主に対する統一的法度
①神祇道を学び神体を知り神事祭礼を勤めること
②伝奏(てんそう)を介した位階昇進の継続
(伝奏・・・とりつぎの人)
③無位の社人は白張(白布の狩衣)を着用し、その他の装束は吉田家(京都吉田神社社家) の許状に準拠すること
④神領の売買・質入れの禁止
(お寺と同じ)
⑤神社破損時の修復と神社の掃除、などが定められている。
・同様の法度が天明2年(1782)と寛政3年(1791)にも出される。
(2)吉田家、白川伯王家による支配
・諸社禰宜神主法度②で有力神社は神社伝奏の公家を介して朝廷とつながることが保障される
・諸社禰宜神主法度③を根拠に吉田家は神主裁許状の発行を通じて神職への支配を拡大した。
(許状がいることになった)
・江戸後期に両家が地方社の支配を競う。
(多賀大社は、独自の公家ルートで、公家が宮司になったり独自のルートがあった)
(3)古社
・独自の伝奏を有した古社はそれを維持し、吉田家、白川伯王家による支配が必要なかった。
・仏教の力が増大することで、神仏習合がより一層深まる
(4)神道側の仏教に対する不満
・幕府により寺院と神社の取扱の差
・寺院 本末制度、寺請制度により、政治・経済的に保護される
・神主裁許状により当主の男性のみ神職と認められる(家族は寺請制度で管理)
➡僧侶の地位、寺院の安定的経営が、神官、檀家を苦しめることもあった
4.多賀町の神社とお寺
・神社 8(神社本庁)
・寺院 61(天台宗2 高野山真言宗1 浄土宗4 浄土真宗本願寺派31 真宗大谷派12
臨済宗妙心寺派2 臨済宗永源寺派4 臨済宗建仁寺派3 曹洞宗1 黄檗宗1)
(25年前の記録なので無くなってしまったところもある)
多賀大社参詣曼荼羅を見ると、白い狩衣の人がたくさんいて、お堂の中では、お坊さんが読経している。黒染め装束は、浄土真宗のお坊さん。天台宗のお坊さんは黄衣に三角の襟が見える。神仏習合がすすんだ様子が見られる。
また、近江名勝図絵は、火事の後なので建物があまりのこっていない。
いろんな人々がお参りに来られていて、日常の暮らしの人や、旅姿の人が見られる。
5.現代の社寺離れ(まとめ)
古いものがたくさん残っているので、古いものを見がちだが、江戸時代のものがたくさん残っている。
昭和のモノが残らない。みな捨てるので。 新しものを捨てると後々の事が分からなくなる。気持ちが離れている人が多い
現代の生活の、役所の役割をお寺がしていた。戦後、宗教と政治と分離したが、お寺と神社が信仰の場であるところに、お寺などに行かなくても生活できるようになる。
そこの事情を知らんと、お寺と神社を語ることはできない。
お寺にどの仏様がおられるのかをしっかりと記録しながら、万が一盗難があっても返してもらえるように、証拠、写真、記録に残すことにメリットがある。
多賀の神社とお寺の江戸時代はいろいろ残っているが、今、断捨離の流れで捨てられつつある。捨てないようにしてほしい。