その2【講演会と意見交換会1】歴史文化を守るために~地域と学校の役割~
その1の続きです。
進行
皆さんの方に振らせてもらって。去年山口先生と工藤先生と、ここでそういう話を具体的に聞いたんですけど。残念ながら広がらなくて。それをめちゃくちゃ頑張って広げていただいた方が、今日来ていただいてる中学校の地域学校共同本部の地域コーディネーターやってるCさんなんですけども。
学校の先生とか関係団体の方に紹介をいただいて、そういう方々からは反響をいただいてるんですけど。決定的に広がるというよりは残念な感じなんかなと思ってます。私ちょうど子どもが行ってる学校のコーディネーターさんなんで。すごく頑張ってもらってるんですけど、なかなか先生に伝わらないっていうのとで。
そこに行ってる生徒が、吹きこぼれとか落ちこぼれの方がやっぱり統計通りの人数がいてても。私としては大変な状況にあるんじゃないかなと思うんですけど。彦根市の教育委員会としては、うまいこといっているみたいな感じ方されてるんです。そういうところで頑張ってるCさんにお聞きしたいなと思いまして。
先生たちを後押しできるような組織に
参加者C
Cと申します。去年工藤先生の話を聞きに来させてもらって、まあまあ以前から工藤先生はよくお話を聞いて、ほんとに大好きで尊敬してるし、こうあってほしいと、ほんとに思うことなので 。工藤先生のお話を、彦根の小学校と中学校と、あと地域でも録画を提供していただいたものをみんなで見合う会をしたりとか。今日もちょっと色々市教委に行っておすすめしたりしてきたんですけど。タイトルも分かりにくくて、勤めてる小学校の先生なんかにも進めたりもしたんですけど、興味あるとは言いながら、姿がないところ見るとオンラインかとか思いながら。
多賀と彦根は地域性も違うので、また違うかと思うんですけど。やっぱり同じなのは学校の先生は、ほんまに今大変だなってすごく思います。忙しくて、もう目の前のことでいっぱいで。さっきもおっしゃってましたけど、ポジティブリストって、本当あれもいい、これもいいって言われることを、もうどんどんやらなくちゃいけなくて。本当にそれを選択して。
やめていくってことがすごく大事なんだろうなと思うんですけど。それにその後ろ盾になるのが、運営協議会なんかなとか、思ったりして学校運営協議会が、今年彦根市は、全校学校運営協議会を運営協議会制度コミュニティースクールにするということで、強引にかなり現場の先生はあんまりありがたくないっていう感じですけども、かなり強引にその制度入れられたんです。
私は、ほんまにこれは必要な制度やなって、自分で入る時はもう反発してたんですけど、そんなん無理やろって。すごく思ってたけど、でもやっぱりこれはこう行くべきやな、っていうのは今すごく感じてるんです。ただ、すごく難しいなと思っていて。本当に形ばかりの評議会になってるところがあって。今までは評価委員っていうのもあったんですけど、本当に年度の初めに学校に集められて話を聞いて評価項目を聞いて、年度の最後にまた集められて評価をする、っていう本当にもう馬鹿みたいな評価委員会に。
また、その間に、会議があるぐらいの程度にしかなってないんじゃないのかなと思いながら、なんとかその評議運営協議会で本当の学校の姿、本当の先生の困っておられる姿とか、教育ってなんやろ、これからこの社会の代わりをみんなで考えて、これから本当に育っていく子どもには、どういう力が必要なんだろうってことまで深く考えて、話し合ってで。そこで本当に、ここでこれはいらないんじゃないか?とかそういう先生たちを後押しできるような、そういう組織になればいいなと思うんですけど。
難しいなと思いながら、今年は運営協議会のメンバーでもやらせてもらってます。
「学校は土地のもの、土地に根差した個性を」
山口裕也先生
学校運営協議会については、僕も随分といろんなことを経験しましたけど、10年ぐらい経った時ですよね、本当に良かったって思えたのは。なぜかというと、学校の先生は、3年とか6年ってサイクルで異動していくわけですよね。そうすると、あくまで一般論ですが、体育が得意な校長先生が来るとその学校の特色は体育になり・・・A先生笑ってらっしゃいますけど、そういうことが往々にしてあり得るんですよ。
「学校は土地のものなので、本当は土地に根差したそれぞれの個性を持つことが望ましい」わけですね。それが学びを、Bさんもおっしゃってた本物にしていくっていうことにつながるすごく大事なポイント。しかし、先生が変わってしまうと、学校が変わってしまう、っていう。これまでは実態があったわけですよね。
でも地域の人っていうのは、基本的にそこに住んでらっしゃる方なので。地域の方が継続的に関わってくださることによって、学校の個性化が進んだこと。だからお隣の学校とうちの学校は、いい意味で違う。それぞれの個性を持った学校で、そうすると個性化ってのはやっぱり相互触発ですよね。
お互いの刺激になるので、学校がそれぞれにもっと特色を強めて、お互いの良さをどんどん伸ばしていくっていうことが僕は経験値としてはやっぱりあります。
それを思えるようになったのは、やっぱ10年ぐらい経ってからだったなっていう風には思いますね。よく教育は、100年の計と言いますけれど。 本当に長い時間をかけてじっくりやっていく必要があることだな、っていう風に、今改めて今聞いていて思ったっていうのが一つですかね。
Cさんもおっしゃってましたけど、日本の学校の先生って忙しいんですよね。 だから僕がよくいろんな自治体さんや学校からそのサポートの依頼を受けた時に、必ず言ってることの一つに、先生が1人で1教科・1単位時間からでもできること。それぐらいのスモールステップ、最初の足場掛けを、小さなもの、確かなものにしてあげないと、多分、多くの先生は、やりたくてもできないっていう状態で詰まっちゃうんだと思うんですね。
自由進度学習 子どもたちに預けてみよう
これいくつも理由ありますよね。まずは、忙しい。もう言うまでもなく忙しい。忙しいということは余裕がない。つまり授業研究やって、明日の授業どうしようってことをじっくり考える余裕がないってことですよね。
まだまだありますよね、複数の学級が1学年にあれば、2組や3組がやってないことを1組だけやると、もしかしたら保護者や地域の皆さんからもクレームを食らうんじゃないか。必ずやっぱりこういう同調圧力が働くので。
その意味でも、例えば、じゃあ単元まるごと自由進度学習って最近よく言いますけど、子どもたちに預けてみようって言った時に、2組と3組は先生がしっかり教えてくれてるのに、1組はなんか自習みたいになってる。みたいなことを巡り巡って先生の耳に入ってくると、やる気もそいでしまわれたりっていうこともあったりすると思うんですよね。
実際、CS化してすごくよかったな、と思うのはその部分なんですよね。いわゆる子どもたちに委ねる学習を追求してた時に、ある子どもが家に帰って言ったそうなんですよ。 最近先生が教えてない、って。その時にやっぱりCS、横の繋がりがあったので。いや違う違う、それは、今みんなで、みんなが自分らしくいられるよう、1人1人が自分なり自分たちなりに学んだり生活したりできるように、先生が教えるっていうことから、みんなが自分でやるっていうことに、みんなで一斉に動き出してるんだよ、っていうことがちゃんと説明ができたと。
やっぱりそれはCSの皆さんが核になって、地域のネットワークを作って、その中で今学校が何をしようとしてるか、ってことをしっかり情報共有してくれてたことが学校の批判を呼び込まなかった。すごく大事なストッパーになったな、っていう風に思うんですよ。
先生が1人で1教科1単位1時間からでもできるって何なのか?
この話を置いた上で戻ると、じゃあ、先生が1人で1教科・1単位時間からでもできるところって何なのか、って話なんですけど。
僕が必ず言っているのは、 大体、今1単位時間45分50分の流れは、問題解決学習とか、課題解決学習って言って、しっかり問題とか課題を共有して、解決の見通しを持って解決して。その過程を振り返って共有みたいな感じでやっていくようになっている。これは、どこからどうやって変えられるか。
大体ですね、問題解決学習とか、課題解決学習っていうのは、 問題を共有して、解決の見通しを持った後に、まずは、1人で10分やってみましょう。その次にペアやグループでもう10分やってみましょう。じゃ最後の10分は、全員でやってみましょうみたいに。1人で、誰かとみんなで、っていうのが10分10分10分の計30分ぐらいで 、ペース、時間、方法ともに固定されて先生から与えられてる状況にあると思うんですね。
でも、容易に想像がつくと思うんですけど、最初から1人でできる子もいれば、全然できなくて苦しむ子もいる。どのタイミングでどのような助けを必要としているかって、子ども1人1人違う状況があるわけじゃないですか。
そこで、10分10分10分を、例えば30分じゃなくてもいいですよ。25分とか20分ぐらいひとまとまりの時間にしてあげて 、1人でやる、誰かとやる、ということを、1人1人の選択と決定に委ねてあげる。でも、1人でやって誰かとやってそれでもできなかったら、例えば先生が用意しておいたヒントカードを使ってね。あるいは先生に直接聞いてね。
1単位時間の中に、この時間が20分25分できれば、全然違うと思うんです。2つの意味において。
それは、先生にまず余裕ができるってことですね。先生が余裕ができると子どもたち1人1人にきめ細かに目が届くようになるので、結果的には、子どもたちにもいい。子どもたち自身にとっても何がいいかっていうと、さっき言ったように、例えば、いつ協力を必要としてるかっていうタイミングが1人1人異なるとすれば、最初から協力する子もいれば、自分でまずはやってみて、協力が必要なタイミングで誰かと一緒にやるとか。そういった選択肢が、子どもたちに与えられることですよね。
例えばですね、今、特別な支援を必要する児童生徒も増えていて非常に大きな課題になってるわけですけど、自閉スペクトラム症の子、こういう子たちはですね、やっぱり1人で没頭できる自由があることがすごく大事なんですよね。
一方、注意欠如多動症、不注意の子だと、自分なりに見通しを持つこととか計画を立てることっていうのがすごくサポーティブに機能するっていうのはよく知られた話なので、いわゆる特別な支援を必要する子どもたちにとっても、この自由な時間があるっていうことは、すごく効果的に働く。
そういう意味でもですね、繰り返しですけど、1単位時間・1教科・先生1人からでもできる。そういう足場掛けを誰かがしてあげると、結構前に進んでいくと言います。
でもですね、その足場かけだけは、誰かがやらなきゃなんですよ。
知らないっていうことは、この情報化社会においてないと思うんです。何が望ましいか、何が問題か課題かっていうことも、大体の先生たちは、あるいは関係者の皆さんは、何が原因かということも含めてちゃんとわかっている。でもやっぱり1歩踏み出せない理由があるんですよ。そこには。
だからそこは、誰かがやっぱりサポートをしてあげないとっていうことなんですよね。それは教育委員会かもしれないし。先生たちの中にすごく頑張ってみたいっていう風に思ってる人たちがいるんだったら、それを誰かがつないでやるってことによって、うまくいくのかもしれない。あるいは、我々のような法人、団体もたくさんあるので、そういうところにサポートを求めてもいいですし。 とにかく最初の1歩を確実に踏み出せるようなサポートっていうのは確実に必要なので。
進行
多分、全体的にあんまりそういう取り組みに目を向けようっていう風にはなってないんでしょうねきっと。
参加者A
うちもコミュニティスクールなんですが、もうおっしゃる通りただの学校の報告会に 成り下がっているかなっていう感じには今んところはなってます。
どこも県立校はそんな感じなんですが、ちょっと僕も全部リサーチしたわけでも別に有識者でもないんですけど、2つぐらいの学校が地域巻き込んでうまくいってるみたいで。それが○○と○○なんです。その2つで こんなこと言うていいんか知らんけど、もう定員があれで、いわゆる潰れかけになって初めて学校が地域に力ようやく求めるのかなと。他の学校はこんなこと言ったらあれですけどぬるいんですよね。今のままでも行けちゃうしとりあえず大学行けてたら保護者から特にクレームもないし、みたいなその辺は感じますね。
このままじゃあかんなって感じで動いている先生もいますが、やっぱ体制の中では 潰されちゃうとか、それは無理とか言われてしまいます。トップが変われば全て変わってしまいますので、そういう構造的なところあると思います。
何をドライバーにするか?
山口裕也先生
でも、その自治体や地域で何をドライバーにするか、っていうのは唯一の解があるっていうことではないんですよね。 例えば近隣ですとよく紹介される学校に名古屋市さんの山吹小がありますよね。
そこでは単元内自由進度学習が週5時間から15時間ぐらい、つまり、自分たちで自分たちなりに学んだり生活したりする時間があるんですけれど、 あそこは、あまり表に出てない要因の1つとして、同じ校長先生が長く在任されていたということがあると思いますね。同じ人が長く続けることには賛否ありますけど、システムを超えて文化になってるっていう点に大きく影響したかなと思います。
その地域学校自治体にしかない何か
例えばですね、多賀町と名前が似てる自治体に、石川県の加賀市さんがあるんですけど、加賀市っていうのは生活指導上、非常に困難な時期があったと聞きました。だからきっと切実な思いがあったんですよ。なんとかしたいっていう思いが。
加賀市は、今全国的にも注目される自治体になってきてるっていうのもあったりするので、 多賀町さんにとって何をドライバーにするかっていうのは、自分で考えなければならない。その地域学校自治体にしかない何かっていうのをやっぱりまずは見出していかないと、一般論で語っていては、先に進むものではないんじゃないでしょうか。
皆さんいかがですか?何が切実な、皆さんにとって今変えたい現実、問題、課題なのかなと思って。
進行
さっきから出てるCSって言葉をご存知ですかね。コミュニティスクールの略称なんですけど、国が施策として文部省がやってるんですけど、 滋賀県はほとんど機能してなかって。ちょっと南の方で効果が出てますよ、みたいなのはあったんですけど。さっきから先生言われてるみたいに、なんちゃってCSっていうか、なんちゃって探究とかよく言われますけど、あんな感じでみんな、「なんちゃって」になってて。
やっぱりご高齢の方が声が大きいっていうこともあって。変えていくとか、自分たちの教育が正しいっていう思いがはびこってるような気がして。
特に田舎へ行けば行くほどそういうのはありますし。逆に彦根市なんかやったら、ほとんど昔の地域っていうのが崩壊してるので、新しい住民の方が入ってきて、無関心っていうか、当事者意識を持とうとしないっていう地域があったりして。さっき先生言われたみたいに、もう地域地域によって全然違うんですよ。多賀町で言うことが彦根に合うということもないし。彦根でやってることが多賀町に合うこともないし。頑張って先生方もやろうとしても、やったらやるだけ仕事が増えます、 他の先生方からちょっと嫌がられてしまうっていうのもあって、大変な状況になるのがわかるので。もうやれないやらないみたいになってるところはあると思います。
もう死にそうになって学校辞めた方も、退職された方もおられますし。今現在でも言った縮図みたいな形になってて、昔の問題や課題やって言われてた教育とか学校の現場のそういう方がたくさんおられますし。だからと言って何もしてないわけじゃないんですけど。さっきの名古屋の紹介とか、もっと近くやったら岐阜の根尾学園っていうところが、多賀町の場合やったら大滝小学校っていうところがあるんですけど、ああいうとことすごくよく似た状況になってるのにああいうふうにはらならないで、多賀町の場合は消えていく方向へ今向かっていって、すごい危機感持ってやらなあかんのに、やらないできないみたいな。そんな状況なんです。
ただ今中学校で去年もこれに来ていただいてたんですけどD先生、美術の担当の方なんですけど、その地域のこととか学校に、美術の力を広げようというので、すごい頑張って来られて多賀町の地域のことをやってもらってるんですけど。ちょっとD先生にその辺もどうかなっていうの聞いてみようかなと思うんですけどいいですか?
受け入れてくださる地域性
参加者D
多賀中学校で美術の教員をしておりますDと申します。私も超多忙で、ほとんど勉強する機会がなくて、昔ながらの教育ってことで進めてるんですけれども。
やっぱり、中学校の現場で言うと教育を通じて生徒たちにどのような力をつけさせていくのかっていうのを、いつも念頭に置いて考えてるんです。やっぱり将来自立した人間になるようにっていうことと、そして将来、また社会で活躍できるそんな人間になってほしいなっていうことで、美術の授業でも意図的に地域の方と触れ合う機会を作ったり、また地域の方と色々触れ合いながら少しずつ成長できる。
そんな営みができたらいいなっていうことで進めているんですけれども。多賀町はそういったことを実践する上でとってもやりやすいっていうか すごく受け入れてくださる地域性がある。施設も、もちろん自由に使ってください、なんでも協力します、っていう感じだし。
また、活動してると皆さんが協力してくれてそんな中に生徒おりますので、触れてる中でいいなっていうことを再認識して、頑張っていこうっていう、そういう気持ちになっています。ちょっと話は思いっきりずれてしまったんですけれども、そういったことをできるだけ感性の豊かな時期に味わっておくと、またゆくゆくいろんなことに目が向けられるんではないかなと考えて。
まず、ささやかなことですけれどもやっているっていう感じです。やろうと思えばできるのかなと思うんですけど。さっき先生言われたドライバーになるのがどういうことなんかな?っていうのはどうでしょう。
人の数だけ地域学校の数だけ解がある
山口裕也先生
これがドライバーになるっぽいと特定してくれれば、 じゃあこうしてみましょうかっていう提案はできますけれど、何をドライバーとするかは、さっきも言ったように、もう千差万別。人の数だけ地域学校の数だけ解があるものなので、それを言ってくれれば具体的な多分ご助言とかができる。ということだと思います。
教育が土地のものだっていう信念があるから
例えば、さっき言った石川県の加賀市さん、今年から関わり始めた自治体さんなんですけど、先日訪問した時には、片山津温泉って地域の訪問だったんですけど、大体、前泊して、8時間、長いと10時間ぐらいかけて学区を全部歩くんですよ。
それは、教育が土地のものだっていう信念があるからで。土地のことがわからないと、学校それぞれに訪問した時に的確な、少なくとも先生方に受け入れていただけるようなご助言ってできないんですよね。
例えば、うちの法人では授業の様子とかがわかるアンケートを出してるんですけど、こういうのって、なかなか難しくて。数値として結果がバキって出てくるので。これって良ければ「やった!」って喜びますけど、 5点満点で2.5とか出てきたら、「うーん」って感じになりますよね。
この時、子どもたちが自己評価してる授業のことだから、結果が良くないってことはイコール先生が良くないからだっていう風に、一般の人が10人いたら多分8人ぐらいそう捉えると思います。
でも、僕は絶対そういう風には考えないです。なぜかというと、 さっきも言ったように、学校は土地のものであって、その土地にどのような社会と経済と文化の状況があるかによって子どもたちの回答は大きく変わりうるからなんですよね。
これはやっぱ地域を歩いてみないとわからないことで、その地域の特性を自分が肌感として知っていればですね、少なくとも結果が2.5という時に、先生の指導が良くないからじゃないですかとは、口が裂けても言えないんですよ。
先生たちは、例えば、地域の社会的な基盤のある種、積み重ねのなさに、すごく苦労されてるんではないか?っていう話が、1個できるだけでもやっぱり全然違うんですよね。
それぐらい各学校・地域には、それぞれに特有固有の課題があるから、これは誰が担うかにもよるんですけど、その担い手となる人は、ちゃんと土地のことを知って先生たちが感じている苦労の、先生たちすら気づいてないような要因まで見出して、分析してその上でやっぱり解決策を、提案する、とかってことぐらいはやらないと。
今先生が自ら命を絶つことすらあるような過酷な仕事の状況の中で、できてないことを責めるっていうのは、やっぱり社会的責任として、やってはいけないことだと思ってるので。だから、繰り返しですけど、話の要点は同じです。「何をドライバーとするか」っていうのは、自分たちで見出していただく他ないんです。 だけど、それを見出していただければ、できるアドバイスとかサポートはいっぱいあるっていうことですね。
対立の構造を持ち込まない
もう1つ、釈迦に説法だと思うんですけど、っていう前提をつけて言いますけど、物事は対立の構造で捉えてる限りは絶対うまくいかないです。あいつらはダメって言った瞬間に、壁ができてるので、谷ができてるので、もう、絶対うまくいかないです。
もうこれは、「とにかく対話」っていう風に、よくうちの苫野の方が言ってますけど、ほんとにそうなんですよ。
最初の、そもそも教育って何のためにあるんだっけっていうこととか、それをもうちょっとパラフレーズした、そしてさっきも言った「子どもたちにとって本当に幸せな子ども時代って何なんだろうね」っていうこととか。
そういった価値観を共有するところから対話を積み重ねて1歩1歩合意を取っていかないと、そんなに物事は簡単には変わらないですよ。 だって近代150年積んでるわけですから。
だからそういうこともあるので、繰り返しですけど、最初の、「何をドライバーとするか」っていうことだけは、やっぱり、ご自分たちで見出していただきたいなっていう風に思いますね。で、その時に「対立の構造を持ち込まない」と。
学ぶってまず何っていうところがブレてる
参加者B
先生1人1人に自分の休みを大事にしてほしいな。先生が自分の休み時間、10分なり、今5分とかなんですよね。教科間の5分の間に子どものプリントの直しの時間を入れ、それができないと遊びに行けない。みんな悲壮な顔してプリント直しをやってやんねんっていうのが、子どもからの話なんです。
うちの子は、やらない休み時間は、自分の時間で、自分の心を落ち着けて次の学習に臨みたいっていうのがしっかりしてるから、もうやらないって言ってるのはやらせないでってお願いしてるぐらいなところで。この人の休み時間は子どもの時間だから、子どもにその時間の采配を与えてほしいっていうことでお願いしてるんやけど。 それを子どもの特性やったり、いろんなことわかって伝えてるのと先生たちは、やらせなきゃっていうこうさせなきゃっていうのに一生懸命。一生懸命なってそれが学力に繋がってる。多分どこかで思ってやるし、これが繋がるんかもしれへんけど。
でも、ずっと学校にいる時間、うんと学ぶなのか、学習なのか。学ぶってまず何?っていうところがこうブレてる。
先生たちは一生懸命一生懸命やってるから、ポジティブリストの積み上げで、どんどんどんどんつみ上げていって、学校の中でほっと息つける時間もない 状況を、お互い作り合ってるっていうようなのが感じるので、 先生が休み時間の10分は、子どもに渡して先生も休むというか。自分の休み時間を大事にしてほしいなって感じながら、子どものみんな泣きながらお直ししてるとか、何も幸せじゃないですよね。誰も幸せじゃないと言ってもいい。誰も幸せにならないけど、自分とこの子はそれしないっていうのを宣言して、 これね、褒めてもらったらやりたいなっていう気持ちでやる。
やりたいと思ってやる時と、やらされるのでは、やっぱり違うっていうのはあるけど。 先生たちはやらせなかった時の結果、先生が悪いんじゃないかとか、もっとさせないとって言われるのを、やっぱ恐れてるところがすごく感じるなって思う。
地域の保護者さんや地域の人たちに運動会など成果を見せたいっていうのがすごく強く感じて。私行事なんてなくなればいいと思っているので。行事に対してのしわ寄せが、日常生活に現れるなら、このやり方は変えていってほしいなって。もう子ども見せ物じゃないよっていうのも。保育園の時から感じてたので 。行事の捉え方、持ち方っていうのを、本当にもうちょっと緩やかになればいいなって。なんか軍隊の発表を見てるようでちょっと心苦しいものがあったので。
コロナの時のできなかったことを、取り返そうと一生懸命してるんやけども、その取り返し方がなんというか、色々コロナの中で制限されて育って、 育ててこれなかった人間関係やったり、対話や話したりすることとか触れ合うこととか、そういうところを今すごく一生懸命取り返してあげたいって思ってやるのが、なんか空回りしてるような気もする。
学校をまるごと子ども主体に転換
山口裕也先生
なるほど。A先生には釈迦に説法ですけど、行事ですね。体育的行事というのが特別活動の中にありますけど。あれは日頃の学習成果の発表の機会であるってことなんですよね。要するに発表のための行事ではなくて、日頃の学習成果をその機会に見せましょうねっていうことだから。つまり行事のために準備をするってことではないんですよ。これは大事なことですね。
それと、とある小学校では、「学校をまるごと子ども主体に転換」っていうキーワードのもとに、行事も子どもたちが作るっていう過程をすごく大事にしていますよね。
中学校でも、例えば体育祭の個人種目もフリーエントリー方式にしたりとか。スポーツって、オリパラの関係で多様な関わり方があるっていうことが強調されるようになったじゃないですか。するだけじゃなくて見ることもあるし、支えることもできるし。だから体育祭への関わり方も運動が得意な人はどんどんいろんな種目にエントリーして頑張る。でも、それを支える、応援するっていう側から、行事として盛り上げていくっていう関わり方を認めたりとか。
子どもたちが、そういやって、自分たちで作った過程を見てもらうっていう。だから兆しはあるし、もともと指導要領はそのように特別活動とか行事というものを規定してるってことは、原理的な部分として踏まえておくといいだろうなっていうふうに思いますね。
上手に手を離すこと
もう1つ、これだけにしますけれど、先生たちにとって僕が1番大事だと思ってることは、今求められてる学びや教育と先生の働き方改革っていうのは相反しません。むしろ、相乗的に実現ができるものですっていうことですね。子どもたち主体の学校とか授業とかって、先生の準備がめっちゃ大変になるんじゃないか、とてもじゃないけどできないよっていう風に言われることが、10人いたら8人って感じでしょうかね。
そんなことないんですよ。
先生たちには、子どもたちから上手に手を離すことによってこそ生み出される余裕があって。その余裕が、実は、子どもたちにとっても何より先生たちにとっても、いい意味で楽になる、楽しくなる、実は不可欠な要素なんだってことなんですよね。
僕は、こういう講演の機会をひたすらにかたくなに断っているんですけど、もう、90分話すとか、辛くてできないんですよ。もう絶対できない。1日50分3コマ4コマとかも。
でもね、対話形式だったら、別にいいです。4時間5時間6時間、全然お付き合いします。 だって楽しいですもん。そういうことなんですよ。つまり40分とか50分。45分とか50分っていう時間を、先生が一斉一律に、35人40人を誰1人取り残すことなく連れてくなんていうことは、僕は現実的に諦めた方がいいと思ってるんです。不可能だし、 それぐらい子どもは多様だしっていうことですよね 。
もっとポジティブに言うと子どもたちには、それぞれにやっぱり合ってる学び方とか生活の仕方っていうのがあって、それを基本に後から追うように応援してあげる方が、要するにもっと学習効果が高くなるってことなんですよね。
だから、「上手に手を離すこと」によって子どもたちにも余裕が生まれるし、1人1人の個性が生かされるようになる。先生にも余裕が生まれて楽しくなるし、35人いたら35人の豊かな個性が目の前で花開くのを 、ほんとに楽しみながら寄り添っていけるようになる。
これは理想論ではないんです。僕は現実に経験してることなので。そういう方向でやっていってほしいなっていう風に思うんですね。
で、さっきも言ったように、「ドライバーを何にするか」ですよ 。いろんなものがあります。人がいるなら人を応援するでもいいですし、例えばですね、 資料っていうのは、本当に世の中にごまんとあるので。
うちのウェブページなんですけど、ニュースっていうのがあって、これ「授業改善から学びの構造転換へ求められる学び教育と教員の働き改革等を創造的に実現するために」っていう趣旨で、今、求められてる学びとか、教育と先生の働き方って相反するどころか、むしろ相乗的に実現できるっていう趣旨で話しています。この中で大事なことは、大きく分けて2つポイントがあって、将来的には先生っていうのは国の制度に保障されて常に複数体制で子どもたちと関われるようにならないと根本的な問題は解決しませんってことを言ってるんです。要するに給特法を変えるとか調整額13パーセントとか、そういう問題だけじゃない。もちろんそれも大事ですけど、根本的に先生のなり手が増えないのは、あるいは離職率が高くなっているのは、あるいは若手の先生がドロップアウトしてしまうのは、そもそもワンオペっていうことに構造的な問題があるから。
これを、やっぱり国の制度として解消しないと、根本的な問題を解決しませんよってことを言ってるのがもう1つですね。
学び教育と先生の働き方改革ってどうしたら創造的に実現する?
もう1つは、今言ったことです。じゃあ具体的に求められてる学び教育と先生の働き方改革って、どうしたら創造的に実現するのっていうことを、 このスライドで説明しています。これで何かが変わるとは思ってませんけど、こういうのがきっかけになって変わっていく人も確かにいるので、こういうのも参考材料にしていただければっていう感じですね。
さっき言った名古屋の例とかは、コンパクトに6分ぐらいの映像があったりするので。やっぱり、先生たちっていい意味で保守的ですよね。確実に効果があるっていうものが目の前にないと、なかなか一歩踏み出せない。でも逆に言うと、それは確かなモデルがあるっていうことが分かれば、踏み出せる先生もたくさんいるってことの裏返しでもあるから。
こういう映像とか見てもらうと、こういう感じなのねっていうのが大体イメージできるようになるので。そういうことで踏み出せる先生がいるかなっていう期待も込めて。これもご紹介っていう感じですね。
その3に続く