よるべなき男の・・事情
第参話:よるべなき男の恋愛事情
「追い出し稼業」は蛇のような吸着で、親し気に近づきながらぬらぬらと、相手の懐に入り込んでは強引に、逃れられない状況を作っていくのが流れでございます。それらは騒音、脅し、嫌がらせと、あらゆる手段を駆使して行われ、じわりじわりととぐろを巻くように周りを巻き込んでいく。その様はまさに大蛇の如く獲物を捕らえて放さないのでございました。
「昨夜のあれはなんだい? 猫の盛りじゃあるまいに」
「一晩中痴話げんか聞かされたよ。あげく…」
「夫婦喧嘩は犬も食わねぇというが、ありゃひどい」
「仲がいいんだか悪ぃんだか、聞かされるこっちはたまらんね」
それまで穏やかだった長屋の一角に、ついぞ最近越してきた大工の夫婦がおり、毎晩ひどい夫婦喧嘩をするのだそうでございます。それに加え、その喧嘩を止めるでもなくひどい罵声をあびせる浪人者がございまして、だれもその浪人には意見を申せなかったので、夫婦喧嘩を止めようにも怖くて戸口に立つことはあっても、その手を取っ手に掛けることまではできない有様でした。
「戸口を開けっぱなしでやり合ってんじゃないかと覗いて見りゃ、あいつがうろうろしてるじゃないか」
「あいつ?」
「ほら、ちょっと前に越してきた浪人者さ」
「あれは、ちょっと足りないんじゃないかね? なんにも喋らないが…」
「いやぁ怒鳴り散らしてるのは奴だろう? 中に入る度胸もなく大工の家の前を行ったり来たりで喚いてた」
「なんだいそりゃ、なんの役にも立ちゃしない」
そんな晩が幾日も続いたある日のことでございます。辛抱たまらなくなった長屋の住人たちは、何人かの男衆を立て大家にどうにかしてもらうよう掛け合うことを算段していたのでございます。
「野暮は出来ねぇとはいえ、騒音ですからね」
「なんとかしてやってくださいよ、大家さん」
「参ったねぇ…今までのどかないい長屋だったのに…」
相変わらずの差配屋治郎兵衛さんは、つい先ほどまで大福を食べていましたと言わんばかりに口の周りや胸元に白いお粉をつけて出張っておいでで、長屋の住人たちは「これはあてにならない」と見えないところでため息をつくのでありました。
とはいえ、それもこれも追い出し屋であるハナブサ一家の仕業でございましたから、この土地の所有者である「枷屋」の旦那様は多少の騒ぎは「受け流せ」と仰せのようで、大家の治郎兵衛が出てきたところでどうにもならないのは周知の事実でございました。
そうこうしているうちに長屋は一軒空き、二軒飽きと、穴の空いた桶が転がるように閑散としていったのでございます。
そうなると都合の良い住人もまたおりまして、こちらの思惑とは別に、また違う思惑も蠢いているようでもありました。
当初の予定では、この程度の仕事にそう日にちはかからないはずでございました。ですがなかなか守備は上々とは言えませんで、実は一番追い出したい相手がおりまして、とはいえそれぞれに事情もありますからそう簡単に絵図通りにはいかないのが現状なのでございます。
ある時、業を煮やしたハナブサは、気まぐれに立ち寄った長屋の中ほどに足を踏み入れ、井戸端で肩をはだけ髪を洗う女を見掛けたのでございます。自分より幾分年上の、うらぶれた長屋には似合いの、しかしながらまだまだ女としての魅力は充分に備わった様子で、その姿になんとも言い難い感情に見舞われたのでございます。
素性がばれぬよう、素知らぬ態度を貫いたハナブサではありましたが、なにぶん色男でありましたから、充分に印象付けてしまったようでもありました。そして唯一の誤算が、迂闊にもハナブサの方が恋に落ちてしまったようなのです。
(あれが、例の…?)
姿を見ずに済めばややこしい事態にならずに済んだものを、気まぐれなんぞを起こしたばかりに、余計な所作が今後の仕事に大きく響くことになるとは思いもよらず…しかも、当人はそれとは自覚しておらず、周りばかりがやかましく煽り立て、そうして思惑とは別の方向に動き出してしまったのでございます。
「ヒデさんたら…最近やたらとお出掛けでないかい。長屋に執着とは、仕事に差し支えるね」
美奈はハナブサに興味はあっても、ハナブサの仕事には一切関わることはありませんでした。ですが、そこに女の影がチラついたとあっては事情が変わって参ります。
「たまには仕事ぶりを見学でもしてみようかねぇ…」
ハナブサの異変にいち早く勘付いた美奈は、すぐさま「追い出し」を掛けている長屋に潜入を図ったのでございます。表向きは「仕事の手伝い」と称し、目的はハナブサの動向及び女関係を探るため…でございました。そうして、厄介なことに長屋に住み着いたのでございます。
美奈は決して賢い部類の女ではありませんでしたが、そういった女の勘働きだけは鋭かったのでございます。そこをハナブサの御母堂様に気に入られていたわけですが、異常なほどにハナブサに執着し、彼に近づく女は手段を選ばず排除にかかるという獣のような執念の持ち主でございました。
「人の出入りがよぉく見えるよう、長屋の入り口の家を手配しておくれ」
美奈は「片輪の一筑」の異名を持つ、左腕がなく右目の潰れた、ハナブサの子分の中で一番はしこい男である「びっこ」に住いの手配を申し付けました。本来ならばこういった細かい作業は右腕である「ホン」に持ち掛けるところでございましたが、よからぬ詮索をされハナブサに止められないとも限りませんので、そこまではだれにも知らせずに動いたようでございます。
「姐さん、それはちと物騒なんで、2件目あたりにしといた方が…」
1件目だろうと2件目だろうと代り映えしないようではありましたが、なにせ塀のない薄い板一枚の建屋ですので、隣家がないよりはましと思ったのでしょう。美奈もさほど頓着せず、
「そうかい。そこんところはあんたの仕事に任せるよ、びっこ」
「へい…!」
とにかくハナブサの動向が知りたいばかりの行動で、少々詰めが甘かったようでございます。
美奈は美人でこそありませんでしたが男を惑わせるだけの手練手管は熟知しておりました。「武家の娘」と言い張るこの女の、ハナブサと知り合う以前の身元は知れてはおりませんでしたが、どこぞの宿場町で遊女をしていたのではないかという想像は容易につきました。それは長らく身を置いた生活の垢とでも申しましょうか、どんなに偽り取り繕ったところで身から出る錆というものはぬぐいようがないのでございます。
そんなわけでハナブサが目に掛ける手下のほとんどは少なからず彼女の色香に惑わされておいででした。それと目に止めて解る者、そうでない者もおりましたが、何分金もなく身上の悪い輩の集まりでしたから、それも仕方のないことでございました。
そして一番の頼りである「ホン」は絵に描いたように恋の奴隷に陥っていたのでございます。名目上ハナブサを裏切りはしませんでしたが、惚れた弱みという意味合いでは謀反もあり得ない話ではございませんでした。が、実は彼の身元はハナブサ本人ではなく、ハナブサの御尊父殿の預かりになっておりましたので最悪は美奈に会えなくなる程度の仕置きで済むところにありました。しかしながらこの男は、大変にしたたかでもありましたから、絶対にハナブサから離れようとは微塵も考えてはおらずに、ただ袖にされる美奈をことあるごと後追いし手助けしていたようでございます。
美奈はそんなホンの気持ちを逆手に、ハナブサの女に関する動向を探らせておりました。当然ホンは、そんなことは右から左と見せかけの忠誠心で受け流しておりましたが、しかし動向を探るまでもなく、滅多に感情を露わにしないハナブサの恋は大変に解り易かったのでございます。
ただ、その視線の先に誰がいるか…ということが問題なのでした。
ハナブサの恋の相手は彼より幾分年上の、訳ありな後家でした。彼女は名を「紗雪(さゆき)」といい、追い出しを掛けている長屋の奥で蝋燭の絵付けをして生計を立てている身元のはっきりしない女でした。身元がはっきりしないとはいえ、どういう経緯でここに住まわされているのか…それだけは戸の立てられないひとの口からすべて、伝馬町で呉服問屋を営んでいる『枷屋』の倅の支度である…ということは知る人ぞ知る秘め事として囁かれておりました。
とはいえ、長屋の住人は噂好きではありましたが厄介ごとには極力関わりたくないもので、なにせ『枷屋』の倅にはどうにも奇異な噂が多く、それが真実かということは別にして「触らぬ神に祟りなし」といった様子。そんなわけで、曰くつきの放蕩息子に囲われているという噂の女は、どうにかこうにかひっそりと暮らしているように見受けられました。
そんな事情を知ってか知らずかハナブサは、密かに後家の女を「さっちゃん」と呼び、遠くから静かに眺める日々を重ねていったのでございます。それはいわゆる一目惚れだった…のではないかと想像に難くありませんが、彼は自分の思いにはまったく気づいていないご様子でありました。
ハナブサはいわゆるひとたらしでございます。ゆえに男にも女にも不自由はなく、といいますのも彼がひと声掛ければだれひとりとして拒むものはなかったからでございます。
現在彼は長屋に住む女に恋慕しながら、それを恋とは気づかずに同じ長屋に住む年老いた笠職人の娘にちょっかいを出しておりました。自分が何のためにそこに通い詰めるのか、自問自答致しましたところ無意識に、これまで通り扱いやすい女を囲うことが最善であろうという考えに至ったようでございます。
笠職人の娘は名を「お栄」といい、浅草から少し離れた料理茶屋「游苑(ゆうえん)」で中居をしているようで、ハナブサはしばしばその料理茶屋に入り浸ることになるのでございます。