小説『オスカルな女たち』 44
第 11 章 『 感 情 』・・・4
《 おとなの階段 》
かつて、玲(あきら)に「おまえは蛇苺だ」といった男がいた・・・・。
ありとあらゆる煌びやかな花になぞらえた玲を、こともあろうに「蛇苺」と言ったのだ。
そこは決して気軽ではない、店内の床すらふかふかのベルベッドが敷き詰められた豪奢なバーだった。
「君は薔薇より美しい。僕の最愛のバラだ」
人目を気にせず跪き、しおれそうな赤い薔薇を一輪差し出すその男の度胸は買うが、高級そうなスーツに身を包みながらも品のない、実に薄っぺらい男だと印象付けた。
「へぇ。口説き文句のおつもり?…で、どんな薔薇なのかしら?」
そんな男に目もくれず、玲は足を組みなおして背を向けた。
「え?」
「私はあなたの、どんな薔薇?」
とりあえずは聞いてやる…そんな態度で背を向けたまま、呆れた声を投げかける。
「あ、あぁそりゃ決まってるさ。真っ赤なバラだ」
男はそんなセリフを吐きながら、ベルベッドの絨毯に白い筋をつけ、玲の顔が向く方に膝を摺り寄せる。
「だから、どんな? どんな真っ赤な薔薇なの?」
一瞥もくれない玲は、早々に立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。だが、男の大げさな態度に、周りの視線が突き刺さる。
「へ?」
「あなた、薔薇の種類がどれだけあるか知っていらっしゃるの? 色だけじゃないわ。花の形ひとつとってもいろいろあるのよ? 私はその中のどの薔薇より美しく、どんな薔薇だというわけなのかしら?」
「ぜ、全部さ」
「へぇ。じゃぁ、世の中の薔薇の花はすべて私より劣るというのね? それはすごいこと」
「あぁ、君はすごいんだ。とにかく素晴らしいよ」
男の湿気を帯びた手の中に、きつく握られた薔薇は今にも首をもたげ悲鳴をあげそうだった。
「そう、よかったわね。それであなたは薔薇が嫌いなの? 私より劣る薔薇はみんな嫌い?」
「あ、あぁそうだね」
「なら私はあなたには応えられないわ。私はあなたの『僕のバラ』なんでしょ。薔薇が嫌いなら、初めから問題外ね」
足を崩してバッグに手を伸ばす。
「そ、それはモノのたとえで! とにかく僕は」
なんとかして引き留めようと必死な男の顔は、先ほどの自信たっぷりな態度とは裏腹にに、薔薇よりも先にへし折れそうな皺をよせていた。
玲は立ち上がり、
「私は、目の前の花しか見えない男は嫌なの!」
ぴしゃりと言い放ち、レジに向かって歩き出そうとした。が、思い直して足を止め、背を向けたまま、
「バラは薔薇よ。鮮やかだろうと、地に落ちていようと薔薇なのよ。隣のバラも遠くのバラもすべて美しくて当たり前、その中からたった一輪の私を見つけられなければ意味がいないの」
未だ跪いたまま惚けた男に言い放つ。そして、今まで自分がついていたテーブルの一輪挿しに目をやり、
「ほら、そこに咲いている小さな花だって、それも薔薇の一種よ。あなたは知らないでしょうけれど。これを見て劣ると言える? こんなにかわいらしくても?」
「ぼ、僕は高貴な大輪のバラが好みなんだ。とにかく…」
すっかりペースを崩された男は立ち上がり、自分の中の精一杯の言い訳をこじつける。それは「高貴な生まれ」の玲を称えるための必死の賛美だった。
「くるしいわね」
「え、でも…」
「無理ね。あなたには『私』という薔薇は育てられないわ」
そう言って玲は歩き出す。
「ま、待ってくれ」
そういうと同時、男の手の中のバラが首を折る。
「最後にひとつだけ…。あなたは、あの幾重にも重なったバラの花びらの中になにがあると思って? あれだけの花びらで隠すにはそれだけの価値があるものが隠されてるということよ。だから薔薇は美しいの」
「え? ぁの宝石、とか?」
呆然と立ち尽くす男は、それでも玲に食い下がる。
「君は、宝石より…」
「真実の愛よ」
ここで初めて玲は男を振り返る。
「馬鹿なお嬢様と見下して、精一杯の素朴さを武器にやってきたのでしょうけれど、あなたの言葉にはなにひとつ誠意を感じられないわ」
「そんなのっ…」
男は俯き、
「ちっ…お高く留まりやがって」
とうとう舌打ちし、薔薇を床に叩きつけた。
それに対し、ため息をつく玲。
「せめて…私という薔薇に魅せられた『蝶』とでも言ったなら、まだマシだったわね」
「じゃ、じゃぁ…」
「馬鹿ね。女に言われてどうするの、情けないひと」
叩きつけられた無残な薔薇を拾い上げ、男の胸ポケットにさしてやる。
「かつてこの私を『蛇苺』だと言ったひとがいたわ。誰もが薔薇や蘭やユリといった高価な花に例える中、蛇苺よ?」
そこで玲は当時の光景を思い出したのか、小さく「ふふ…」と笑い、
「…でもその彼『たとえ毒にあたっても世界中の蛇苺を食べつくす』と言い放ったわ…」
そう言って、瞬きしながら男を見上げた。
「蛇苺…そ、そりゃぁひどいな」
「えぇ、でも。蛇苺もまた、バラ科の植物よ。それもあなたにはどうでもいいことね」
「え…」
「植物図鑑嘗め尽くすぐらいの気合で、出直してらっしゃい。ボウヤ」
低く、そう静かに言い放って踵を返す。
「出直す価値もないかしら…? ほほほ…」
それはまだ、玲が水本姓を名乗る以前の話だ。
蛇苺の花言葉は「可憐」。そして「小悪魔のような魅力」。
あの人は、知っていたのかしら・・・・?
『羽子(わこ)が家出したぁ? そんなのいつものことじゃんよ』
「いつものことじゃないわよ! あの子、男と逃、げ、た、の!」
『はぁ? たまに電話してきたと思ったら、』
「とにかく、出てきて!」
そんなやり取りがあってお約束の『kyss(シュス)』だった・・・・。
4人がここ『kyss』で顔をそろえるのは夏以来、実に2ヶ月以上が経っていた。
「おりちゃんは?」
当然真実(まこと)と一緒だと思っていたつかさからは自然に出た言葉だった。
「まだ来てないの?」
所在を知っているらしい真実からすれば、先に来ているものと判断して急いでやってきたという素振り。
「てっきり一緒だと思ったから」
「いや、一緒だったんだけど…」
真実はそう言葉を濁し、入口に目をやり、
「野暮用で、別々に出たんだ。もうくるだろ」
丈の長いコートを脱ぎながら答えた。
「でも久しぶりにそろうね」
そうつかさが告げると、
「それよりマコ、さっきパトカーから降りてこなかった?」
ほぼ同時にこちらについたらしい玲が言った。
「え?」
通り過ぎてから車を降りたつもりの真実は、見られていたとは思わずにうろたえた。
「なんかやったの?」
いたずらに問いかけるも、
「ん、なわけ…佑介だよ」
そう返す真実に「わかってるわよ」と当然のように笑って答える玲。
ならいいじゃん…と独り言を唱えるも、
「よりもどったの?」
という、無神経な玲の言葉に激高する。
「ん、なわけ!」
「あれ? でも、こないだ…」
そのやり取りに、なにかを思い出したようなつかさの言葉を遮り、
「最近うざいんだよ。また」
また…といって、詳細を語りたくない真実は平静を取り繕いながら席に着く。だが玲は、それを見逃してはくれないだろうと、その目に半ばあきらめ、
「麻琴、知ってんだろ? 玲」
「まこと?」
「義妹(いもうと)。…あいつ、こないだうちで子ども産んだんだよ。あたしの誕生日に」
「いもうと? マコちゃん、妹なんていたの?」
つかさには初めての言葉だった。
「あぁ、義理の…」
ここで説明を求められるのも面倒な真実はおざなりな返事をする。
「誕生日の帝王切開? 彼女だったの…」
「そう。よりによって、あたしの誕生日」
参った…とおどけて見せる真実。
「まさか名前、真実じゃないわよね?」
「まさかだろ? あいつだって麻琴だぜ? 自分と同じ名前つけるほどバカじゃないだろ」
「まぁ…それもそうね。それでどうして、佑介とパトカーデート?」
間髪入れない玲は、面白がって真実をあおる。
「デートじゃない! たまたま用があって、送ってもらっただけ」
「パトカーで?」
「いいだろ、なんでも!」
「なんでもよかったら、聞かないわよ。なによ、秘密主義?」
「やけに絡むじゃんか…」
今日の真実は虫の居所が悪いらしい。だがそれは、自分から招集をかけ「呼び出した」玲も同じだった。
「ねぇ、せっかく久しぶりなのに…」
また始まるのか…とつかさが牽制する。
「佑介に余計なこと吹き込んだらしくて」
「なにを?」
「あたしに『好きなやつがいるんじゃないか』…って」
ごにょごにょと歯切れの悪い言い方をする。
「いるって言えばいいじゃな~い」
玲としては解り切った答えだ。だが、
「ぇ、いるの!?」
真実を凝視するつかさ。つかさにとってはさらに寝耳に水な言葉だ。
「いないよ。…だから、そうなるだろ? いろいろうざいんだよ」
説明を省きたい真実は早口に誤魔化した。
「それでパトカーでデート」
「ちがうわっ!…あぁ、織瀬(おりせ)」
入口にその姿を捉え、天の助けとばかりに安堵する真実。
「ごめんねぇ、思いのほか車が混んでて…。真実早かったね」
小走りにテーブルに駆け寄りショート丈のコートを脱ぐ織瀬。
「だってパトカーで来たんですもの」
今ひとつ気持ちが収まらない玲が、再度真実をいじるような発言をする。
「ぱとかー?」
当然の織瀬の返しに、
「話を蒸し返すな!!」
「だって…」
「どうしたの、玲」
たった今たどり着いたばかりの織瀬には状況が呑み込めずにいた。だが、それまでの話を聞いていたつかさとて、それは同じ気持ちで、織瀬に目配せし首を横に振るだけだった。
かんぱ~い!
ひとまず注文が済み、4人の飲み物が届いた。そして先日真実の不在で繰り越しになっていた〈ポッキーとプリッツ〉も人数分、生クリームやディップと一緒に綺麗に盛られて同時に並んだ。
つかさが真実のジョッキにグラスを合わせ、
「まずはマコちゃん、お誕生日おめでとう」
言われて真実は照れ臭そうに返した。
「サンキュー、どうも。みんなにもらった花は受付に飾らせてもらってるよ」
「おめでとう。…これで玲だけだね」
と、織瀬が続いた。
「私は来年だし…」
早生まれは年を重ねるほど優越感を感じる。いつまでたっても一歳下…と、得意げに玲はグラスを空けた。
「あ、そうだ、玲。木箱が届いたわ」
そうそう…と思いついたようにつかさが口を開いた。
「木箱? なんの話よ?」
まだなにかサロンに必要なものがあるのか…とつかさを見遣る真実。
「ほら、引っ越しの時に飲んだスパークリングワイン。この前、開店祝いにもいただいたんだけどね…」
申し訳なさそうに語るつかさ。
「あぁ、そっち?」
「つかさが気に入ったようだから、環(たまき)お兄様にお願いしたのよ」
「まだ、日本には出回ってないんだって。真実、知ってた? 玲のお兄様、ワイナリーまで持ってるのね」
すごいよね…と織瀬が続く。
「あぁ、2番目の。道楽兄ぃちゃん」
「なんだか『貰う』レベルじゃない量で、申し訳ないんだけど…」
「あら、よかったじゃない。お兄様も喜んでらしたわ。これで仕事してくれたら言うことないのだけれど…」
そう言って再びグラスに口をつける玲。
「あぁ、あの性格は治らないだろ」
こちらはすっかり安心してジョッキを持ち上げる真実。
「で? ひとつずつ説明してくれるんだよね?」
そんな真実にプリッツを差し出し、にやりと笑みを浮かべるつかさ。
「あぁ…?」
ひとしきりジョッキを斜めに喉を鳴らしたあと真実は、逃げられないのか…とあきらめのため息。向けられたプリッツに、半分やけで噛り付いた。
「まず、なんでパトカーできたの?」
スッと今度は、ポッキーをマイク代わりに差し出す玲。
「はぁ…。ったく」
天井を仰いでがっくりと首を落とす真実。
「久しぶりに会ったってのに、この話題…」
そうひとこと述べ、額に手を当て「勤務中にケガしたんだとさ~」とあきらめのひとこと。
「佑介が?」
備え付けの生クリームにポッキーを差し込む玲。
「そう。たいしたことはない。だけどその連絡がなぜかうちにまで来て、お袋さんが応対したもんだから大騒ぎで…。調子に乗って最近やたらと電話よこすんだよ」
言いながらチラリとつかさを見遣る。
「あ~それで…職場にまで電話が来てるんだ」
そこでつかさは手を打ち、ひとまず納得した。
「離婚してから、間もなく10年も経とうというのに、未だにあなたのところに連絡がいくって…マコ、離婚した意味あったの?」
「知らないよ。…だいたい大げさなんだよ、ちょっと顔に傷作って、肩外れたくらいで…」
「え? そんななの? 大捕り物でもあったわけ?」
いいながらデキャンタに手を伸ばすつかさ。
確か佑介の所属は〈刑事課〉だと聞いている。
「詳しくは聞いてない。聞く必要もないし」
「入院してるの?」
とは、最近入院を経験した織瀬の言葉。
「1日だけね。けど、しばらく現場には出れないからな。思わぬ休暇で暇になったんだろ。思春期の娘は最近、メールの頻度が落ちたとか、なんとかで…」
「で、なんでパトカー?」
「せっつくなよ。退院手続に行ってたんだよ。あのバカ、カード留められてて」
「でも給料日、昨日だよね?」
「自分じゃいけないからって、あたしが…。そうだよ、なんでそんなことまでっ!」
思い出したら腹が立ったのか、ジョッキをあおり激しくテーブルに打ち付けた。
「でも、カードの暗証番号知ってるんだ…」
ぽそり、と織瀬が地雷を踏んだ。
暗証番号は昔と変わらず、真実の西暦だった。
「ぅ~。おかわり!」
「ハイハイ…」
そう言って真実の代わりに玲はカウンターに手を挙げた。
「あ~今日は、そんなモード?」
もうひとつ…と聞きたいところを飲み込むつかさ。
「あぁ、ごめん。だから、早くみんなに会いたくて、迎えに来てた佑介の後輩に送らせたんだよ。まさか突っ込まれるとも思わなかったし」
「パトカーで突っ込まれない方が問題じゃない?」
織瀬がくすりと笑った。
「そういうことよ…。しかもパトカーでお迎えって、職権乱用じゃなくて?」
玲も続いて含み笑いをする。
「知らないよ」
ますますブスくれる真実は、思い出したように切り返す。
「そんなことより玲、本題は?」
「本・題?」
「ひとのこといじり倒して、自分のことは言わずじまいじゃねーだろうな。なんのための招集よ?」
「え、あぁ。そうね、そうだったわね…」
途端に歯切れが悪くなる。
「なに? 玲も、なにか問題?」
玲の兄嫁である『巻き毛のオスカル』こと〈明日香〉の家出からこっち、穏やかな毎日を送っているだろうと思われていた玲だったが、年頃の子どもを持つ身としてはそうそう気の休まる日はないということか。
「問題って程でも…」
「はぁ? 問題だろ? あんだけいきり立って電話してきたんだから」
散々いじられた真実は身振りを加え、これ見よがしに大げさに捲し立てる。
「そうなの? 珍しいね」
なにがあっても慌てることのない肝の座った玲も、さすがに子どものこととなるとそうはいかないのか…と、織瀬も注目する。
「なになに? 羽子ちゃん、どうかしたの?」
すぐさまつかさもなにかと騒がす長女〈羽子〉の名前を出すあたり、まぁだいたいの予想がつくというところだろうか。
「羽子が男ととんずらしたんだってよ~」
「とんずら…」
「そういう言い方はないでしょう。大きい声出さないで」
急に殊勝な態度の玲。
「ほかにどういうのよ?」
「もしかしたらあの子…帰ってこないかもしれないわ。駆け落ちのつもりよ」
ともかく相談のつもりで出向いてきた玲だが、我が子のことながらその気性は承知しているといった様子で、静かに語りだした。
「駆け落ち~?」
「だれも止めやしないのに…」
愁いを帯びた目で、それでも玲にはなにか思うところがあるようだった。
「止めろよ。そのつもりであたしら呼んだんだろ?」
「そうだけれど…。無理に止めたら余計突っ走るじゃない」
ごもっともな意見ではあるが、玲らしからぬ遠慮がちな言葉。
「そりゃそうだろうけど」
「相手、知ってる人なの?」
玲がそれだけのことをいうからには、それなりの理由があるのだろうと控えめに問う織瀬。
「ぜんぜん」
「知らないのに、諦めてるの? 居場所は?」
それはつかさも同じ気持ちで、半ばあきらめ気味の玲を訝しむ。
「でもそれってさぁ…」
「なによ…?」
「いや…」
いつもなら「あーでもない、こーでもない」と矢継ぎ早に攻め入りそうな真実だったが、今日はどういうわけか言葉を飲み込んだ。
「自分のことなら体よく流せたのに…」
玲のその言葉を受け、
「自分のこと気に病んでるのか?」
と、真実も探るような目を投げる。
「家出同然であの娘(こ)産んでるのよ。大きな声では止められないわ」
やけに弱気な発言をする。
「バカか。母親だろ?」
「母親だからよ。本気だったらどうするのよ!?」
「遠慮するところじゃないだろ、自分のことになるとてんっでダメだな。間違ってても止めろよ。止めてほしいのかもしれないだろ?」
「そんな無茶苦茶な…」
「らしくねぇな、玲」
「旦那様はなんて?」
いくら血の繋がりがないとはいえ、もうずっと幼いころから見てきている娘なのだ。当然玲の夫も無関心ではいられないだろう。
「それがね、羽子のことになるとおろおろするばかりで、使い物にならないのよ。駄目ね男親って…私だって、だれにも止められなかったもの。どうしていいのか解らないのよ」
「玲の時は黒服がいたじゃん。なんだよ。ぜんぜんダメだな。しっかりしろよ」
言いながら左隣の玲の肩を叩き、思い出したように、
「そんなの、旦那がなんとかできんじゃないの? 黒服までとは言わなくても…」
ちらりと玲を見遣る。
「黒服? ごめん。あたしにはなんとも言えないわ」
黒服と言われては出る幕がない。子どものいないつかさには、それ以上の突込みはできなかった。
「でも居場所くらいは解らないと…」
静かに織瀬が続く。
「玲。旦那となんかあったな?」
真実はそう言って口元を歪め、針孔を覗くような目をして見せる。
「な、なによ…」
玲もいったんは顔を背け、だが観念したようにため息をつき、
「そうよ。ちょっと…家庭の事情でね、機嫌を損ねてしまったから…少し距離を置いてるの」
憮然と答えた。
「家庭の事情~? 機嫌を損ねた?」
みるみる真実の顔がほころんでいく。
「マコちゃん、そういうとこ…」
「珍しいね。玲が、旦那様を怒らせたの?」
尋ねる織瀬に、玲は解らないほど瞬間的につかさを見、
「ちょっと…もらったおもちゃを、無断で壊してしまったものだから」
と、小さく意味深な答え方をした。
「おもちゃ? それって…」
勘のいいつかさには、それがつい先日玲に連れられて行った「マンションの一室」のことではないか…と察しがついた。
「おもちゃ壊したくらいで夫婦げんか? はっ…金持ちってやつは」
呆れる…とかぶりを振る真実に、
「ヴィンテージ物とか、貴重なアンティークとかなの?」
と、高額なものではないか…と心配する織瀬。
「そういうものじゃないんだけれど…」
頬に手を当て、言いあぐねる玲。
「旦那様にとっては、とっても大事だったのね…」
ひとり神妙に返すつかさに、
「もともと、無理があったのよ」
先が見えていたことなのだ…と、示唆した。
「佑介に、探させる…? か…」
真実もそれ以上玲を突くことはしなかった。
「お願いできるかしら?」
玲は改まって膝を真実の方に向ける。
「どうせそのつもりだろ」
横目で答える真実。
「恩に着るわ」
「じゃ~あたしにもワインか、ビール届けて…♪」
にやりとする。
「もう~水臭いわね。そんなのいつでも届けてあげるわよ。なんならビール会社の株券を進呈するわ」
「いらねぇよ、バカ。だからやなんだよ金持ちは、冗談通じない」
「私はいつでも本気よ」
「知ってるよ。だから変な男につかまったんだろ?」
呆れ顔で玲をたしなめる。
「ぜんぜん、変じゃないわよ」
ツン、とすねて見せる玲は、気の置けない真実にだけ見せる顔をしていた。
あ、き、らめました… あなたのことは~♪…
それは陽射しの強いある夏の日のことだった。
「おまえいくつ? もっと今どきの歌、歌えねぇのかよ」
岩の上に亀がいる。最初はそう思った。
「不法侵入ね。ここは御門(みかど)のプライベートビーチよ」
慌てるでもなく、涼やかに言い放つ玲。それを受け、岩の上の亀は起き上がり、
「普通さ。そんなこと言う前に『キャー』って騒ぐとか、そのみだらな体を隠すとか、すんじゃないの?」
悪びれもなく肩肘をついてこちらをまじまじと凝視する。
野次でも飛ばすかのように「ぴゅぃ」っと首笛を鳴らす岩の上の亀は「へぇ」と、舐めるように玲を見据えた。
「みだら? 失礼ね、私は完璧だわ」
左手を腰に当てポーズをとって見せる玲。
「いやいやいや、そうじゃなくて…。俺はいいけどね、気持ちいいくらいオープンで。でも、色気がないな」
起き上がり胡坐をかく亀。
「色気? は…っ、あなたに色気を振りまく道理はなくってよ」
今度は両腕を腰に当て、仁王立ちで亀を見据える。
その姿は相手に「みだら」と言わせるだけに、腰にルーズにパレオだけを纏ったトップレス姿だったのだ。
「は…『なくってよ』って。ホントにお嬢さまなんだなぁ」
いいながら膝の上に頬杖を突き、
「あんた、この状況でなにされても文句言えねぇんだぜ?」
小首をかしげる亀は、あまりに堂々とした態度に苦笑いで答える。
「ここは、プライベートビーチなんだろ? 誰も助けちゃくれないぜ?」
前傾姿勢で両手を広げて見せる亀。
だが、その言葉に動じることもなく玲は、
「言ったでしょう? 私は完璧なの。死に際だとて綺麗に決まっているわ」
「は? あんた馬鹿じゃねーの?」
突飛な言葉に腕を外し、呆れたように首をかしげる。
「馬鹿? そんなこと言われる筋合い…」
「俺に殺されるとでも思ってるわけ?」
そう言って亀は高笑いした後、
「だれが殺すよ。そんなことより、周りにはだれもいない。叫んだってだれも来ないってことだ。こんなチャンス逃すかよ? それともなにか? 世間知らずの、清いお嬢さまは男と女のなにがしをしらないとでも?」
「べらべらと頭の悪い男ね」
今度は腕を振り下ろし、玲は失笑して見せる。
「なにぃ! 自分の立場わかってんのか?」
岩から飛び降り、玲のもとへ駆け寄ろうとするが、
「おだまり!」
ぴしゃりとその足を止められる。
「お前のような汚らわしい輩に指一本触れさせるものですか! 汚される前に、お前を楽しませてやる前に、自分の命を絶つ術くらい心得ていると言っているのよ!」
そう言って玲は自分の首筋に垂直に爪を立てて見せた。
「はぁ? なに言ってんの? 江戸時代かよ」
「近寄らないで!」
爪を立てた右手をそのままに、今度は左腕で胸のトップを隠す。
「いやいやいや…今さら、遅いだろ」
不敵な笑いを浮かべ、にじり寄る亀。
「私は本気よ」
低く静かに答える玲。
「本気ね。…あんた、面白いね。お嬢さまってみんなそんななの?」
そう言って亀は額に手を当て、
「襲われないうちにさっさと帰んな」
薄ら笑いを残して去って行った。
「な、なんなの、失礼な男ね。襲うに値しないとでもいうの!? この完璧な私が!」
握りこぶしを胸に、玲は長い髪をなびかせ浜辺を後にした。
玲、19歳の夏の一幕であった。
「岩場の亀のくせに!」
それが、羽子の父親と出会った瞬間だった・・・・。
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¥ 100
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します