小説『オスカルな女たち』 17
第 5 章 『 警 告 』・・・1
《 希望にかける温度差 》
『女』という生き物は、基本的に〈記念日〉が好きである。ごく稀にそうではない人種もあろうが、最低限「誕生日」であったり「クリスマス」であったり、個人起点やカレンダー上イベントとなる日ぐらいは少なからず〈特別〉であり、特に大切な相手やパートナーには覚えていてもらいたいと願うものである。かといって〈出会った記念日〉〈つき合った記念日〉〈初めて記念日〉…等々、度が過ぎると「アニバ女」と疎まれるきらいもある。
とはいえ〈特別〉というスパイスは、時に男と女のマンネリズムを脱するよいアクセントになることもあるのだ。
今年は、織瀬(おりせ)と幸(ゆき)が結婚してちょうど10年目にあたる。夫婦という関係にスパイスが必要な時期ともいえるだろう。
「もうすぐ結婚記念日ね…」
コーヒーを差し出し席に着く織瀬。サラっと口にしてはいるが内心前のめりであることを悟られまいと平静を装っていることは言うまでもない。
「そうだね」
こちらはなんの疑いもなく涼やかに、どんな直球も変化球でさえも風のようにさらりとかわしてくれそうな返事の幸。
「ちょうど節目でもあるし。今年は特別なことをしたいと思ってるんだけど…幸はどう思う?」
普段通りの朝食の風景。近頃ますます寡黙な幸と、このところのすれ違いを気に病む織瀬は、今年は大いに〈特別〉を重視したい。ゆえに何気ない会話の延長を装い切り出したのだ。
いつからこんな風に、顔色を窺うようになったのだろう・・・・。
「いいんじゃない?」
基本、幸はなにごとにも動じない。織瀬の性格上相手の「無反応」が一番気を遣う態度ではあったが、幸に関し10年連れ添う今となっては、何気ない一言がどんなに冷たく感じても「これはいつも通り。傷つくほどの言葉じゃない」といい聞かせ流せる術が身についた。
「そう? じゃぁ…」
話のとっかかりはつかめた。
「旅行なんかいいんじゃないかな…?」
織瀬の職場には新婚旅行向けのパンフレットが多数そろえられている。そこまでの大袈裟なプランでなくとも、行き先を決める参考くらいにはなるかもしれない。
「そうだね…。どこか行きたいところでもあるの?」
こうしていつも、幸は織瀬の話をきちんと聞いてくれる。生返事や言葉を濁すといったようなことは決してしない。そういう意味では会話は成り立っているし、別段夫婦の関係に危機感を覚えることはない。だが逆に、自分から発信することのない幸の、いつでも受け身な態度に物足りなさを感じるようになった。とはいえそこに気づかない振りをしていれば、優しい夫がこちらの「意見を尊重してくれている」と思い込むことはできる。
「一泊でも、気分転換にもなるし。温泉とか?」
在宅ワークの幸は、基本仕事は電話やFAXで事足りる。時折自分の所属する会社に出掛けて行くこともあるにはあるが、よほどのことがない限り部屋(家)を出ることはない。出不精ゆえの在宅なのだ。いつも「どこで」気分転換をし「なにで」ストレス解消をしているのか、織瀬は常々不思議に思っていた。ゆえに幸の日常を憂い、どうにかして外に連れ出そうと余暇の計画を立てていた。
「そうだな、温泉か…。でも一泊じゃ忙しいんじゃない?」
旅先でも出かけたがらない幸には、宿について、荷物を解いて、翌日にすぐ荷造り…というだけで落ち着けないらしい。
(いい感じ…わりと乗り気じゃないの…?)
だから曖昧な返事だろうが、微妙な興味だろうが見逃さずに反応し拾い上げた。
「じゃ旅行で決まり、でいい? なん泊にする?」
多少強引ではあるが、とにかく目的を決めてしまえばいいのだ。
「いいけど織瀬、まとまった休み、取れるの?」
毎朝の、出勤前の食事の時間は限られている。多少早口になるのは仕方がないとしても、がっついている感は表に出してはいけない。
「それは早めに言えばなんとかなると思うけど」
「無理しなくてもいいんだよ。いつも休みの前は大変そうだから…」
確かに、ただでさえ人手不足の職場で、長期の休みを取ろうと思えば多少忙しくなることは否めない。がしかしそれとこれとは別、背に腹はかえられないのだ。
「じゃぁ…ちょっと高級なレストランで食事とかならどう…? それなら一泊でも」
更に、あまり外食を好まない夫だが、こんな時ぐらいはつき合ってくれるのではないか…と淡い期待をよせる。
「わざわざ外で食べなくてもいいんじゃないの?」
案の定な言葉に、
「だから、食事をして、ホテルに泊まるってのもいいよね…!」
それならば忙しさは軽減される…と、これ以上ない提案とばかりに弾んだ声で進言する。
「どこか行きたいところがあるなら…?」
「そういうわけじゃないけど…たまにはいいかなって。だって」
10周年なのだ。
ただの〈結婚記念日〉なら、これほど必死になることもなかった。日々のさみしい夫婦生活を思い、特別な日に特別な演出をすれば「あるいは…」と甘い期待を抱いてしまうのも無理はない。が、これまでも織瀬の想いが報われたことはない。だからといってこの先のことを考えれば、今年ばかりはなにもなくていいはずはない。とにかく約束を取り付けることが肝心なのだ。
「舞台を見に行くのもいいよね? コンサートとか…」
織瀬の高校以来の親友は、最近ミュージカル女優として名を馳せている。ひとこと声を掛ければチケットも容易に手に入るだろう。ダメもとで提案してみるも、
「それはちょっと…」
あっさりと却下されてしまう。
「そう、だよねえ…」
(映画もDVDでいいんだもんね…)
思いつく限りの〈特別〉な演出プランを繰り出すも「べつにいつも通りでいいんじゃないか…?」と、最後にはいつも通りの気のない返事が返ってくるだけだった。
(想定内だけど…)
「でもせっかく…」
でも、10年なんだけどな…想像していたとはいえ、やはりこの反応には萎える。
サミシイ・・・・
毎年事前にプレゼントを用意するのも織瀬だけだ。幸はいつもそれを受けて「なにかほしいものがあったら買っていいよ」というだけ。だからこれといって特別なものを受け取ったことはない。それゆえのクッション、それゆえの枕…というわけではないが、それが結果なのだ。溜め息の吹き出しのようにベッドに並べられていくそれらにも、特別な意味はあるのだ。
これまでのプレゼントもそれほど高価なものではなかったが、記念になにか残したいと思うのは女だからだろうか。
「織瀬、いつも休日のたびにいろいろやってくれてるし、ボクにとっては毎日が特別なんだよ」
いつもと同じ顔、いつもと同じトーンで織瀬を見つめる優しい夫。
「ゆき…」
それはそれで嬉しい言葉、嬉しいまなざし…だけれど。
これはふたりの2ヶ月前の会話だった。それ以後〈結婚記念日〉に関する計画は話題にも上らない。幸の中ではもう「済んだ話」になってしまっている可能性すらある。むしろここ最近の幸の忙しさには「余暇をつくらないようにしている」とさえ感じてしまう織瀬。
(休日に気合入れすぎたのかな…)
それでもこの数か月を思えば、出掛けた記憶はないに等しい。
出不精な人間は、本気でそういったイベントに疲れてしまうのだろうか。少しの買い物や、ちょっとした洒落た食事でさえも苦痛を感じるのだろうか。計画の半分はいつも企画倒れで、3分の1はお互いの仕事でキャンセルに…織瀬の望むささやかでスペシャルな休日は年を追うごとに減ってきている。これはコミュニケーションの上でのセックスレスと同じだと織瀬は解釈していた。
このまま、いつも通りに過ぎていくのだろうか…。
そんな日々をやり過ごし「結婚記念日」まで1ヶ月を切った。結局、この時点での「旅行」の選択は自動的になくなっていた。
「10年だよ…。今年は10周年なんだよ、幸」
貴重な休日である水曜日の朝食を済ませ、書斎に戻っていった夫の椅子に、織瀬は小さく投げかけた。
あっはっはっはっはっはっは…
ひーっ、はっはっはっはっ…
いゃーはっはっはっはっ…
「マコ、笑いすぎよ…」
いつまでも笑いの止まらない真実(まこと)を、冷ややかな目で真正面に見据える玲(あきら)は、その大げさすぎる態度に憤慨していた。
「だっ、だって。さ。はは…は…」
また笑いだしそうなところを無理に抑え、目じりに涙まで滲ませテーブルを叩いて見せる。
「マコちゃん見てる方が全然面白いんだけど…」
つかさは吹き出しながら、真実のオーバーリアクションに笑った。
「真実もそんな風に笑うのね…」
思春期の話題に沸いた先日の様子を気にかけていた織瀬も、いつも通りの真実の姿に小さく微笑む。
「なに、それ。…ふたりとも、まだまだあたしを知らないね…?」
幾分酔っているようにも見受けられる真実の態度だが、まだ店に入ってほんの数分しか経っていない。妙な勘ぐりをすれば、ハイテンションに違和感を覚えるくらいに。
「なに偉そうに気取ってんのよ、マコ。ひと事だと思って…」
鼻息荒く少々苛立ちを覚える玲は「まったく…」とため息を漏らした。
こちらは正規の女子会。いつものバー『kyss(シュス)』で今夜は珍しく、唯一設けられているボックス席を予約しての飲み会だった。
『kyss』の入っているビルの一階には、中途半端なところに張りがあり、一見使い勝手の悪そうなその狭い空間にだけ半円を描くようにソファと、そのソファと円になるよう半円を模ったテーブルが置かれていた。その頭上から天蓋ベッドのような丸いベールがその空間を仕切るように下がり、別段孤立した要素もないが、店内の暗さもあいまって少しくらいの人目は気にならない造りになっている。この場所だけは完全予約制で、オードブル付きとなっていた。
「だってひと事じゃん。…で? それで、楽しく女子会してきたの?」
「楽しいわけがないじゃない…? 針のむしろよ。おかげで久しぶりのお兄様の料理も満足に食べられずに、ビールばっかりがぶがぶ飲まされて…翌朝のむくみようったらなかったわ」
そう言っている本日の玲もピッチが速い。一杯目のビールを飲み干し、テーブル中央に置かれた店員を呼ぶためのガラスのベルを忙しく鳴らした。
「それは、それは、お気の毒」
こちらも負け時と応戦、あおるようにジョッキを空けていく真実。
その様子を横目で見る玲は、
「気に入らないわね、その顔…」
「こういう顔なんだよ~」
いつもにもまして嫌な絡みをする。
「大体…あなたにも電話が行ってたっていうじゃない…? 援護射撃してやろうとは思わなかったわけ?」
「だって、行くと思ってないもーん」
「お家の一大事って言われたのよ…? 行かないわけにいかないでしょう」
「あたしには、フツーに『女子会』って言ってた…」
「なんで教えてくれなかったのよ!」
もう…と膨れてみせる。
「だから行かないと思ったから…!」
堂々巡りの真実と玲。
「察してよ…っ」
「わかんねーよ」
「まぁまぁ…今日は気分を変えて、楽しく飲もうよ。せっかく集まったんだし、織瀬の誕生日の前祝ってことで」
ワイングラスを片手に、幾ばかりか上機嫌のつかさ。
「…そうね、せっかくの夜だもの…」
そう言って玲は皮肉な目で真実をたしなめる。
「それにしてもつかさ、思い切ったわねぇ」
髪を切ってから初めて顔を合わせる玲は、店に入ってから理由を聞きたくて仕方がない様子だった。
「うん。やっと…願いが叶ったって感じよ」
つかさは軽く髪をゆすって見せた。
「アクションを起こしたってわけね」
「うん。これで追い風が吹けばいいんだけどねぇ…」
ふふ…っと笑って見せるつかさに、
「いい顔してるもの。きっといい風吹いてくるわよ」
そう言って玲も微笑んだ。
「…ご注文、お伺いいたします」
この空間を仕切るベールの向こうに真田が現れ、跪くのが見える。
「…オードブルはなにか追加いたしますか?」
「ローストビーフあるかしら?」
すかさず玲が答える。
「はい…」
「それと、チーズの盛り合わせを追加していただける?」
「かしこまりました」
「あと、4人分の飲み物ね…」
話し終えるのを待ち構えていたように真実が追加する。
「ほかはよろしいですか…?」
応じながら真田は、正面に座る織瀬に目を移したように見えた。
「ない。とりあえず飲み物…」
そう答える真実を横に、織瀬は多少の居心地の悪さを感じていた。なぜなら今日は、先日「旅行の一件」でつかさと訪れて以来の来店なのだ。
わかりました…と言って去っていく真田は、いつも通りで憎らしいくらいだが、だからと言ってあのやり取りをここで話題にするわけにはいかないと、織瀬は息をひそめていた。
「やっぱり、私にはこちらの方が気が楽だわ…」
ほっとしたように右隣に並ぶつかさ、織瀬、真実と3人を流すよう順に眺める。そもそも「女子会」を意識したことすらなかっただけに、それが今の玲の本音だった。
「それで、どんな話をしたの?」
玲を覗き込むようにしてすぐ隣のつかさが問う。
「どんなって?」
「女、子、会…」
それはそれで興味の惹く話題ではある。
「それは…。実に、くだらない内容よ。覚えてないわ…建設的では、なかったわね」
兄が浮気してるかもしれない…なんて話題をここでまで持ち出せるわけがない玲は、こちらもいつもの常套句「覚えてない」を持ち出し、誤魔化すように取り皿に手を伸ばした。
「でも、久しぶりに取り巻きに囲まれたんだよね? ちょっとその場を覗いてみたかったな」
「もう、織瀬まで…ひと事だと思って言ってくれるわね。…でもあの人たち、私たちが『羨ましい』って言っていたわ」
言ってしまって、話の内容をどう処理しようか言葉を選ぶ玲。
「なにが?」
「この関係よ。桜子なんて『本家の女子会』…ってはしゃいでいたくらいだから」
「本家~?」
「おかしいわよね。しかもあの人たち、私を『親友』と言っていたわ。あの頃の関係を考えたらとてもそんな風には思えないけれど。みんな、大人になったってことなのかしら…」
周りの動向がまったく気にならなかった高校時代、自分の心の葛藤を人に悟られまいと必死に均衡を保って虚勢を張っていた日々。
「まさか本気で親友だったなんて思っているわけじゃないわよね…?」
だれにともなく問いかける。
「へぇ~…親友だったんだぁ」
皮肉な笑いを浮かべる真実。
「羨ましい、か…。高校時代のことを思えば、今のあたしたちこそ彼女たちには信じられないことだしね」
言いながらデキャンタから自分のグラスにワインを注ぐつかさ。
「それと…」
少し勿体つけるように間をおいて、
「桜子が、例の『第2の思春期』の話をしていたわ。思わず同じエステに通っているのかしら?…と聞きそうになったわよ」
と玲は思い出し笑いをしながら話した。
「まぁた、思春期?」
勘弁してよ…と真実が頭を押さえる。
「同級生なんだもんね、案外考えることは一緒なのかも…」
そうしみじみと織瀬が答えると、
「そうなんだよね。同級生なんだよね、あたしたち…しかし、親友とは…」
ククク…と小さく笑うつかさ。今となっては「同級生」と改めて呼ぶのも妙なものだ。
「でも少し見直したわ。みんなそれぞれに、母親だったり、家業だったり、それなりに立派にこなしてるんですものね…」
思いのほか、いい人たちだったみたい…と、付け加えた。
「まぁいつまでも17、8じゃないことは確かだ」
「じゃ、また誘われたら参加するの? あちらの女子会」
好奇に満ちた目で織瀬が問う。
「それとこれとは別よ…」
「そこは譲らないんだ~」
「でも玲、最近、家空けすぎなんじゃないの? 今日だって、ココ…前から予約してたわけじゃないよね…?」
滅多に選択しない予約席のチョイスに、なにか特別な意味があったのか…とつかさが問う。
「今日は…。いいの」
対し玲は少し現実に引き戻されたような、つまらなそうな顔をして、
「ホテルのラウンジって気分じゃなかったし、電話したらちょうど空いてるって、あの子が勧めてくれたから…あなたたちを呼んだのよ」
あの子…と言い、真田の背中に視線を送る。
「章悟くん?」
「へぇ~なかなか。気ぃ遣うじゃん」
事情は知らなくとも、隣の織瀬の身体が一瞬こわばったのを見逃さなかった真実は、予約席を勧めたという真田の心配りに、ひとり納得した様子で織瀬を見た。
「ホテルのラウンジ? どっちにしても今日は出てくるつもりだったの?」
意外にも今日の招集は玲からだった。いつもならこちらから伺いを立て、極力玲の都合に合わせて日を決めていただけに、それはつかさも言及したいところではあった。
「私にもいろいろあるのよ。織瀬だって、水曜なのに出てきたじゃない…?」
言い訳のように織瀬の顔を伺う玲。
「でもちょうどよかったじゃない? 織瀬の誕生日も祝えるし…」
「まぁ…ね…」
そう、気持ちが落ち着かない理由は真田のことばかりではなかった。水曜日は織瀬の固定休、本来なら幸と一緒にいるはずの時間だった。だが今夜は「家にいたくない」と思ってしまったのだ。気が滅入るその出来事を「今日は考えずにいよう…」と気分転換も兼ねて出てきたのだ。
「なに? いろいろって…織瀬もなんかあった?」
「また、お義母さんが来たとか…?」
「そうじゃないけど…。あったというか…。実は…」
歯切れの悪い織瀬は、静かに気持ちが落ち着かない本音を語り始めた。
「…へぇ10周年なんだ。早いもんだね、いつ?」
いつもの〈ナッツ〉を頬張りながら真実は、自分の離婚歴とそう変わらないな…なんてことを考えていた。
「再来週…」
「再来週…って、来月? あら、すぐじゃない。なにか特別なこと考えてるの?」
話の流れ的に、数か月先のことかと思い込んでいたらしい玲は驚いた様子で言った。
「8月1日? 随分と変な時期だったんだな…」
「そりゃ、シーズンオフに自分の勤め先の会場を使おうと思えば…自動的にそうなるじゃない?」
「な~る…繁忙期に式挙げて、さらに新婚旅行なんか行ってたらヒンシュクってことか」
「その前に誕生日は?」
赤ワインを片手に、運ばれてきた〈チーズの盛り合わせ〉をちまちまとつまむつかさ。
「ぁ…う…ん。そうなんだけど、ね…ちょうど仕事だし。この際誕生日はいいかと思って」
今日の気分はギムレット。誰も疑問を抱く者はいないが、相変わらず織瀬の飲み物は無言の注文、真田チョイス。
「誕生日、来週…金曜じゃん。ユキくんがなんか用意してるんじゃないの…?」
「どうだろ。でもいいよ、もう」
「なによ? 随分と冷めてるじゃない、織瀬らしくもない」
玲はドライフルーツをつまみながら、静かにビールグラスを傾ける。
「そうだよ。だって誕生日だし」
「そういうわけじゃないんだけど…さ。このままいつも通りで終わりそうで…」
ついつい愚痴のようにこぼしてしまった。しゅん…とする織瀬に、
「いつも通り?」
なにが違うのか…と、眉根を寄せて問う玲。
「朝起きて、予定を聞いて、仕事って言われて…。ちょっと頑張った料理食べて…『10周年だね』って言っておわり…?」
それは休日のルーティーン。本来なら今夜もそのはずだった。だが、今夜は意識的に放棄した。
(初めて、かもしれない…)
休日に家にいないなんてことはこの10年、一度もなかったことだ。
「やっぱり、なにかあった?」
「なにも…」
その「なにもない」ことが問題なのだ。でもこのままだと、特別感がなにも感じられないまま〈結婚記念日〉が過ぎてしまうような予感がすると気落ちする織瀬。
「それがいつも通り…?」
「希望の半分は却下されて、あとの半分はなんとなく流されて…。今年はなんだか、いつも以上に触れないようにしてるように感じるし。きっと誕生日も忘れてる」
〈特別〉が大事なのか〈記念日〉が大事なのか、もう自分でもなにを大事にしてきたのかがわからなくなっている…それが本音だ。
「それはないだろ…」
さすがに誕生日は…と、真実は言いかけてやめた。
「それって普段となにも変わらないってことじゃない。大丈夫なの、あなたたち」
ちょうど一か月前に聞いた夫婦生活の問題に加え、内情はもっと深刻なのではないかと訝しむ玲。
「会話がないわけじゃないよ。いろいろ提案もしてみたんだけど『いつも通りでいい』って言われてそのままだったから。でも、ほんとにスルーされそうって思って、」
「それでここのところ元気がなかったわけか…」
それに加えて先日の真田の告白…本気でなびいてしまうのではないかと一瞬考えるつかさだったが、ここでそれを口にするのははばかられた。
「あたしは3年も持たなかったから、そんな面倒なこと考えずに済んだけどねぇ…」
「もう、マコちゃんは…」
「そういう面倒がなくていいって話よ。やる気もないけど。…結婚記念日、毎年祝ってるの?」
「最初のころは、出掛けたりしてたんだけど。最近は出掛けるどころか、むしろなにもない。でも今年はなにか違うことしたかったんだよねぇ。旅行とか…さ」
「行けばいいじゃない」
「もう休み取れないよ」
ますます落ち込む織瀬。
「まぁ、その日にこだわらなければ、行けるだろうけど。もう、そんな元気もわかない」
自分ひとりが盛り上がったところで、楽しめるはずがない。
「ね、プレゼントとかは用意してるの?」
話題を変えようと気を遣うつかさ。
「一応…」
「なにを?」
そこは真実も興味をそそられるらしい。
「書斎の椅子…」
「椅子ぅ…? 結婚記念日に椅子?」
「へん? やっぱり…。でも結婚以来ずっと使ってるからギシギシいうし、仕事場だし、少しでも座り心地のいいものがいいかなって思って」
不安顔の織瀬。
「その様子だと、だいぶ値の張るものだったんじゃない?」
織瀬の頑張りが目に見えるようだ…と、その健気さが報われそうにないことをせつなく思うつかさ。
「枕を買う織瀬らしいチョイスね…」
玲が小さく微笑んだ。
「それは言わないで…もう買ってないし」
「玲は? 玲は当然なにかあったよね?」
織瀬の沈んだ顔に反応するように、つかさが次の質問を繰り出す。
「私…? 私は…部屋をもらったわ」
こちらも申し訳なさそうに答える。
「部屋ぁ!」
玲以外の3人の言葉が重なる。
「あんだけでっかいマンションに住んでて、部屋なんかどうすんだよ」
また、でかいプレゼントだな…と真実が突っ込む。
「そりゃ…ひとりになりたいときとか? 趣味…とか、ね」
「趣味…」
疑いの眼差しを向ける真実。
「10年でしょ? それなりに考えて…逃げられちゃまずいとでも思ったんでしょうよ」
慌ててとりなす玲。
「その部屋で、ひとりでなにするの」
素朴な疑問を投げかけるつかさに、
「その部屋に逃げられるだろうよ?」
いい隠れ家じゃないか…と招待を期待する真実。
「言われてみれば…そうね。でも、招待はしないわよ」
「なんだよ、それ。結局玲に都合よくできてんじゃん」
これだから金持ちの考えることは…と、背もたれにもたれかかる真実。何気無い言葉のつもりで言い殴る。が、
「そういう部屋じゃないのよ…!」
慌てて否定する玲は、思わず口を突いて出てしまったことに「落ち着くインテリアじゃないのよ…」とうまくかわしたつもりで付け加えた。
「落ち着くインテリア~? 玲、どんな趣味よ…?」
どうにもそこが気になるらしい。
「い、いろいろよ。いろいろ、多趣味なの」
「いろいろ多趣味~? いろいろ『退屈』が口癖の玲が~? いろいろ聞いたことない…」
ますます疑いを強くする真実は、「いろいろ」を繰り返して玲をあおる。
「玲、趣味とかあるんだ」
そこはつかさも興味をそそられるらしい。
「なんだっていいじゃない。あなたたちだってあるでしょ、趣味のひとつやふたつ…」
これ以上突っ込まれては困ると、話を切り上げようとする。
「なに慌ててんの? なんかあんの?」
すかさず切り返す真実に、
「マコ、うるさい。…子宮フェチのあなたは、仕事が趣味なのよねぇ…」
言い逃れついでに皮肉で返す玲。
「フェチいうな! 勘違いされるだろうが…!」
「大丈夫よ~。私たちはみんな知ってるもの…」
「そういうことじゃない、つーのっ…!」
「ふふふ…また始まった~」
もうすでにおなじみのこのやり取りを、最近では楽しみにさえ感じているつかさだ。
「趣味…ねぇ。あたしも仕事が趣味の延長なのかも…。マコちゃんみたいに」
「も、ってなんだ? みたいに、ってなに、つかさ。あたしは趣味じゃない、家業だっつーの! 家業! 家業なの!」
いたく必死に説く真実。
「あははは…わかってるよ~」
「つかさ、飲みすぎだ。笑いすぎ」
半円の、斜め向かいのつかさのグラスを取り上げようとする。が、
「どうした?」
ふと真実が、お腹をさする織瀬に声をかける。
「ぁ…ちょっと、ね。生理痛…かな…。ここ最近、重いんだよね」
「痛いの? 薬は?」
「そこまでじゃないから…」
ただ、お腹をさするのが癖になっているのだという。
「過保護ね、マコは。診てあげたらいいじゃない」
当然のように答える玲に、
「それはなかなか、来づらいんじゃないの?」
なぜか即答する真実。
確かに、友人の営む産婦人科に行くには多少気まずさが邪魔するだろうか。
「そうなの?」
不思議顔の玲。
「そういうわけじゃないけど…行きそびれてて」
「仕事しすぎじゃないの?」
このところの織瀬の仕事ぶりを玲が指摘する。人出不足は中間管理職の身にだいぶ職務の負荷をかけているようだ。
「紹介状書こうか?」
その手の権威に…と真実が答える。
「ン…大丈夫よ。ありがとう」
「今日はもう帰った方がいい」
「…そう、しようかな」
気が滅入る。気分も落ち込む。このままでは悪酔いしそうだ。
(罰が当たったのかな…)
せっかくの水曜日をないがしろにしたことを落ち着かない自分に言い訳する。
「送るよ…」
そうすることは当然、といった様子で立ち上がる真実。
「え、いいよ。大丈夫…」
「遠慮しないで、送ってもらいなさいな」
真実が答える前に玲が言った。
「でも…」
「いいよ…充分笑わせてもらったし~」
自分のビールを飲み干し、そう玲に目配せする。
「ごめん、なんか…。せっかく盛り上がってるところ」
「気にしないで、今夜は急だったし。残りは片付けておくから…お祝いは改めてね」
そう言って玲はウィンクしてふたりを送り出した。
そうして織瀬と真実は店を後にした。
帰りのタクシーの中、織瀬は不安げに重く口を開いた。
「真実…。あたし、子どもも産めないまま、このまま更年期…になっちゃうのかな…」
「織瀬…? まだ早いだろ…」
「でも、そういう人もいないわけじゃないでしょう…?」
「そりゃそうだけど。…そういう人たちはもっといろいろ症状が出てるだろ」
なにかあるのか…そう言いかけて言葉を飲み込む。産婦人科らしい言葉をかけてやりたい真実だったが、目の前の織瀬の悲痛な姿にいつもの冷静さを欠いていた。それはまるで出産を控える妻を前にうろたえる夫のような、そんな心境に似ていると思った。
「なんだか、怖くて。…だから、行きづらいんじゃなくて、病院に行けなかった…」
「今は血液検査でもわかるから、やっぱり病院は行った方がいい」
「うん」
「いつから? そんな風に重いの…?」
「数か月…。半年くらいになるのかなぁ…なんだか量が増えたっていうか、最近は生理が来ると貧血になることもあって」
「なんで言わない? 言えないか…。なるべく早く、病院に行きな。うちでもいいけど、気まずいようなら…」
「ごめんね、気を使わせて」
「そんなことないよ。心配なだけ」
女も38歳ともなれば、いろいろと心配事も増えていく。
「ひとりで悩むな…」
「うん。ありがとう」