山川健一さんの書評~『私』を書くということ。
山川健一さんの書いた、七井翔子さん著「私を見て、ぎゅっと愛して」の、書評を読んだ。
「私」というものを書くこと。
その意味と意義について考えさせられた。
私の場合は、根っこに露悪癖がある。
自分を晒し者にして人を笑わせることが、この上なく楽しみである。
できるだけどぎつく、露悪癖を発揮する、これがまた快感である。
今現在描いているものは、シリアスであるが(「港町ブルース」のことだ)、いつかまた初心に戻って、どぎついギャグをやりたいという気持ちは頭の中にどっぷりある。
私の神である、谷岡ヤスジ大先生の「鼻血ブー!!!!」を、自分自身の体験談でやりたいのである。
どっこも出してくれそうもないような、そんな露悪ギャグをやりたいのだ。
もう頭の中には、大体エピソードはあるのだが、まずは「港町ブルース」の連載を、きっちりと始めて、描き切りたい。
「私」を描く。もしくは、書く。
七井翔子さんは、まるで鋭い雨に身を晒すような文体で、徹頭徹尾、「何かに撃たれに行くように」自身の姿を綴っている。
生と死の狭間、その危うい崖っぷちで歩くことをやめない。
私には、到底できない描写のしかたである。
私と七井さんは友人であるが、恐らく「自身の描きかた」は正反対である。
私の場合は、常にどこか反骨があり、そして徹底的に自分の中に露悪があり、読んだ人の何かを破壊してやろうと、そのくらいどぎつい生をぶつけてやろうと、どこかそう言った魂胆がある。
常識なんぞ、良識なんぞ、クソ食らえ!!!と思っているところがある。
私は描くときに、必ず何がしかの魂胆があるが(それはシリアスにおいても)、七井さんは、ただ真正面から自分を貫く針のような視点、そういったもので何の魂胆もなく自身を描写している。
「私」を描く。または書く。
私にとってその意味は「趣味」であり、意義があるとしたら、「何らかの破壊と再生」を生み出したいと言う、初めから持っている魂胆だ。
七井さんには、そういった魂胆がない。
ただひたすらに、自身を後ろから真っ正面から、突き刺すように見る、隙のない視点だけである。
七井さんの文章には、嘘もなく虚飾もなく、ただポツンと自分自身があるだけである。
それは全く等身大の、それ以上でもなくそれ以下でもない「私」なのである。
対して私は、実体験そのものであるが、紙の上で描写するとき、虚飾しなければならない場面はあるし(第三者をバレないように描くとき必要である)、誇張した表現というものはバンバン使う。
途中でいきなり男性漫画のような表現になったり、映画や漫画をパクったり、私の場合はやり放題である。
言ってみれば、私は物を描くとき、紙の上は無法地帯で、そこに自分を落とし込むとき、ニタニタと不気味な笑みを浮かべながら自分の「鼻血ブー!!!!」を模索し、それを人に読ませて「俺知らねー!!!!」と思っているのが本心だ。
もちろん、メッセージ性のある漫画を描く時は、伝わってくれと願うが、それでもそれ以上に、ぶっちぎった生をぶつけてやるぜ!!!といった、おおよそ体育会系のノリである。
七井さんの、儚くも強くピンと張られた一本の糸のような、緊張感や生々しさ、「私」をある種の狂気と背中合わせに貫く潔さは、読んでいて壮絶なものがある。
「私」を描く。または書く。
私たちが友達なのは、どこか相通じるところがあるからなのだが、表現方法は、全くと言っていいほど違う。
違うから、惹かれあって友達になっているのかもしれないが、私から見れば、七井さんの書くものの魅力は、透徹としていて、「ああこれは、この人の業だな。私にはないものだ」と、いつも思うのだ。
同じように、自分自身を描写して来た私達であるが、「私」を描写することの、自分に対する対価は、こうまでも違うものかと、まざまざと思う。
「私」を描写する。
それによる発見も、犠牲も、快感も、歳を追うごとに変わってくるが、これほど面白いことはないと、私は未だに思いながら描いている。