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『ゴッホの手紙』/小林秀雄

高校に入学して、ほとんど同時に巡り合った「ゴッホの手紙」という小林秀雄の著書の冒頭の部分に、私は太く 鉛筆で線を引いた箇所がある。

「いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断の無い倫理的意思の結果であり、告白とは、そういう内的作業のほとんど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙なあるいは拙劣な取り引きの写し絵ではないのだ」

この1文による私への影響は、多大なものであった。

私は文芸部の部室で、そして 国語以外の教科のとき、論文や韻文ばかり書いていた。
その作品はほとんど自分の内的なもので、この1文にある「告白」というものが、まさに自分の目指す表現であった。

そしてこの1文は、私が生きているという、「存在」それ自体ヘも影響を及ぼした。

「生き様」そのものがこの1文における「告白」という行為そのものでありたいと願うようになっていた。

そうあろうと努めるたびに、世の中は私を抉り、そして私自身も自分自身を抉った。

自分自身に実直であろうと努めた。
それが決して、自己存在と自己認識との駆け引きではあってはならぬ、自分自身というものが「今」という時間を生きるとき、下手な言い訳など絶対にない、「全く 純粋な動機」そのものであろうとした。

故に私は周りに対し、クソがつくほど真面目で、自分を貶めるような冗談ばかり言い、ぎくしゃくするほど不器用で、丸裸だった。
自己を主張しようとするときすぐに頬が赤くなり、朴念仁で、まったく みっともない格好のつかない人間になるしかなかった。

私は作品を作るためだけに、自然というものに打ちのめされたかった。
例えば 嵐のなか、山からの急勾配を自転車で薄着で雨に打たれながら疾走したり、大しけの海と切り立った 絶壁との隙間を歩いたりした。
自然が唸りを上げて人間など軽く飲み込むような風景 ばかりを心に刻むために、あらゆる場面で実験をした。

1年の同級生の、学年でも1位2位を争う女子生徒から目の敵にされ、しょっちゅう喧嘩を売られては、言いたい放題の説教に晒された。

彼女から見た私は、どうしようもない馬鹿のする、自分自身への堂々巡りの中で主体性を持てずうろうろしている、全く 情けない人間の姿であったろう。

私は日々、自分の精神の至る所に抱えた「恥」という爆弾を、人前で壊してみせるといった、まったく 痛々しいショーをやった。
そして徹底的なストイシズムで、極限まで自分を律することをやった。

全てが、「作品を作るためだけ」の、恥も外聞もない自分の中の小さな闘いであった。

良い作品を作る。

その為だけなら、人からどう思われようが構わなかったのだ。

私は毎日、深く傷ついた。

代わりに多くを得た。

極端な自分自身への扱いと精神への実験の連続、粉々になったプライドを更に踏みつけるような自虐に、思春期という脆さでもって耐えるには痛みが必要だった。

自分で自分の腕を滅多切りにするしか他に、私は自分を保つ方法を思いつかなかった。

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卯月妙子
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