河合隼雄:「心の処方箋」・「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」

河合隼雄さんのこの二冊が素晴らしかった。村上春樹さんが「河合隼雄さんには自分が分かってもらえる気がした」と話していたのも頷ける内容だった。

河合隼雄さんが取り入れた箱庭療法は日本の社会的養護において非常に大きな役割を果たしている。全ての児童相談所には箱庭療法用の器具が置かれていて、そこにやってくる子どもたちのほとんどが一度はこの砂場と人形を使って遊びをする(それが実際にどれくらい意味あるのかは専門家でない僕にはよく分からないのだが、当事者である子どもたちからは「これで自分の何が分かるんだと思った」という意見をよく聞く)。

「心の処方箋」は「人の心など分かるはずがない」という一文から始まる。その一文を読んだだけで、僕はこの本を読んで良かったと思う。

実際、僕は自分自身のことすらいまだによく分かっていない。また、人とちょっと話しただけで、その人のことを分かったような顔をする人ともあまり仲良くなれないなと思う。そういう人に限って、長年関わってきた人に「裏切られて」、途方に暮れる。裏切られたという感情は、他人の心が持つ様々な可能性に対して目を閉ざしていたからやってくるのではないだろうか。

それなのに、社会的養護関係者や精神科医(少なくとも子ども福祉に関わっている関連の人々)の多くが誰かが打ち立てた理論に子どもたちを当てはめて、本来全ての子どもに存在するはずの多様性や不確実性をとても矮小化してしまっているような気がする。

「あの子はADHDだから」、「ああ、あの子はアスペだからこういう対応しなきゃね」、みたいな事を専門家らが言って、定型化した対応をしようとするたびに僕は若干カチンとする。精神状態というのは全てスペクトラムであって、その枠にはまらない可能性が残されているのに、それを摘んでしまっているような気がしてならないからだ。彼らがお手上げと断じた子どもたちだって、誰かが信頼と愛情を注げば何とかなることだってある。

そんな河合隼雄さんがなんで「心のノート」などという僕からすると荒唐無稽としか言いようがないものの導入に熱心だったのかは謎でしかない。僕が本を読む限り、またビデオで講演を聞く限り、彼は徹底した実践の人、一対一での話し合いの人、常に一人ひとりの子どもが持つ多様な可能性を信じる人だった。そういう世界にいる人が、全ての学校に配るようなノートの設計をうまく出来るわけないのに。


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