表現には記憶が重要だという仮説② /言葉にできないということを許す
こんにちは。前回の続きです。
この回で、「言語化できない私たちの気持ちを支えるから、絵は特別だ」、と書きました。
ここでいう絵は、美術館に所蔵されている絵とは限りません。誰の上手くても下手でも、なんでもいい絵全般です。
言語化とは何か、
言葉で考える、理解する、表す
と定義します。
でも、それが全てにおいて適正な方法ではないかもしれないと、提案したい。なぜなら、言語化できないことも人のこころにはあるから。言語化したことで排除されてしまう気持ちがあるから。
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私は、感覚ですが、心が言葉でいっぱいの人と心がはっきりしない人(揺らぎと言いますか)が、いるように感じます。
この揺らぎがある人が、じゃあブレがある人かというとそうでもなく、はっきりさせない(出来ない)ことを許容して生きている人だと思います。
このはっきりさせないと言うところに、無意識が存在する場所が残されていて、そこには、積み重なった言語化されない記憶がふわふわと生き残っている気がします。
ここでやっとタイトルの「表現と記憶」が出てくるのですが、このふわふわの記憶を表現できたら、きっと、その人だけの、あるいはその土地のその民族の表現が生まれるのではないか、と考えています。
ちなみにこのふわふわの記憶は、特定の感情とは限らず、辛い記憶でも、幸せな記憶でも何でもない些細な記憶でも、強烈な記憶でも、美しくて感動した記憶でも、どれもその人を表しています。
ふわふわというと柔らかなイメージですが、トゲトゲでもカクカクでもキラキラでもいいのですが、言語化されない曖昧なと言う意味でふわふわと書きました。
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以上、「表現には記憶が重要だという仮説」は、いかがだったでしょうか。
今度は、記憶は連なりによって肯定を生む(仮)について書けたらと思います。
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有難うございました!