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表現には記憶が重要だという仮説①/文字より先にあるもの

こんにちは。気温が不安定な日が続いていますね。私は喉がやられてきました。みなさま、どうぞ、お身体ご自愛ください。

今日は、「表現者と記憶」について、私なりに考えたことを書きたいなと思います。ここでいう表現とは主に、「絵を描くこと」を中心に考えていくので、それは私の表現とは違うと思った方は、どうか読み飛ばして下さい。

私は、表現者、特に「絵を描く人々の性質」についてとても興味があります。

きっかけは、かつて働いていたアートギャラリーがとても肌に合っていたと未だに思い出すこと。またこれまで知り合った画家さんたちに対して、変わっているなあと思いつつ、どこか自分にはないものを感じて憧れさえすること。

決定的だったのは、これまで私自身、社会の中で感じてきた違和感があるのですが、それらに対してメンチを切って表現しているさまを、今回の仕事で間近で見たことなのです。

そして、以下のことを私は知りたくなりました。

・「美術」あるいは「絵画」に自分(の気持ちや考え)を表現するとは何か、そしてそれに惹かれたり勇気づけられる私たちがいるのはなぜか。

・「絵画や表現」を糧にあるいは携えて生活し交流する方法が、いわゆる世間で認知される方法と少し異なるが成り立っている。

絵は、文字が始まるより先にあったと言われています。

私は頭の中を整理したい時など、大抵は文章で書き起こすようにしています。言葉にすることで、悩んでいることを明確化したり、問題解決の具体的な糸口にしたりします。

ところが、どうしても、理由も分からず心が落ち着かない時もあります。強い怒りや悲しみなど、どうしようもない感情で心も頭も占拠されてしまったような感じです。

そんな時は、白いスケッチブック(落書きノート)に、作為的ではなく、思い浮かんだイメージをそのまま描きつけます。これははっきり言って、かなり下手です。でもそれで手を止めて消しゴムで消したりはしません。消す時は、ぐしゃぐしゃに塗りつぶすのです。これは違うのだ、と分かるように、存在自体を無くすのではなく、塗りつぶす事で痕跡を残します。紙が破けたってかまいやしません。

そうすると、少しずつ心が落ち着いてきます(私の場合ですが)。言葉では表現できない、つまり説明できない何かが表現できて、人は表現できると気持ちが解放に向かいますので、それなりに発散して気が済むのだと思います。

もしかしたらこれが、歌や踊りの場合もあるかもしれません。とにかく、言葉も技術もいらないと言うことが前提です。

これらをアートセラピーと言うのかも知れませんが(不勉強)、そもそも人が無意識に持っていたはずのセルフケアだと思います。

タイトルと話が大分ずれてしまいました。

だから、絵は特別なのです。

これも大分飛びましたが、人の心は言語化できるとは限らず、言語化ではない方法で、私たちを表し支えると言う意味で特別なのです。

長くなりましたので、また次回。



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