2023年ウクライナ情勢理解のための関連知識:モルドバと汎ドニエストル共和国潜入
(コピー・シェアご自由にどうぞ)
当方は現在、米国大学にてホスピタリテイ・観光経営分野で研究系博士教員をしている日本人の米国永住者です。ウクライナには縁があって旧ソ連崩壊後数年であった1995年から往訪しており、渡航回数は30回程度です。過去5年は年に数回のペースで渡航していました。過去一年にウクライナについての記事を3回書きましたが、2022年1月28日、ロシアの軍事侵攻3週間前に書いた記事で推測したロシア軍のウクライナ侵攻と侵攻経路については、結果としては残念ながらほとんど正しい推測をしていた事になりました。
これは特殊な予知能力ではなく、30回ほどウクライナに渡航し、自分でレンタカーを運転して主要道路を走り、特にキエフ近隣から東部と南部の各都市間の距離や地形を体感しており、地元の知人友人等と意見を交わしていたためです。特に南部のケルソン州都ケルソン市は結婚式を挙げ、義父母(ウクライナ国籍とロシア国籍、共に故人)が住み、歯科外科手術で数か月滞在しており、そこからクリミア半島には2014年のロシア不法占拠前に複数回自分の運転で軍港セバストポリやリゾート地ヤルタに往訪しているため、存じ上げている背景があります。
旅行記としてご覧頂く場合は以下の1.は飛ばして2.ルーマニアからモルドバ首都キシニエフ経由で陸路汎ドニエストル共和国に入域,
からがお薦めです。時間の余裕がない方は3.汎ドニエストル共和国潜入:内部の様子, から見て頂ければ十分かと思います。
1.汎ドニエストル共和国経緯と概要
汎ドニエストル共和国(英語名:Transnistria)はロシア語では「プリドネストロビエ(Приднестровье)」と呼ばれており、一旦モルドバやウクライナ等の旧ソ連諸国に入ると、英語名では理解されません。簡単な歴史を紐解くと、元々オスマントルコ帝国が支配していた黒海沿岸部(現ウクライナのオデッサやケルソン、そして現ルーマニア)にロシア帝国が何度も露土戦争を仕掛けて長期的にロシア帝国が奪い取った地域です。
まずは地図を載せます。
(1)歴史的経緯
その時の有名な将軍がアレクサンダー・ヴァシリヴィッチ・スヴォロフ大元帥(1730年-1800年)であり、露土戦争での黒海沿岸だけでなく、ポーランドやイタリアにまで遠征してロシア帝国領土拡大を実現した将軍です。つい最近まで、何とウクライナのオデッサや当方の心の故郷ケルソン市にまでスヴォロフ将軍の像があったのですが、それは「彼のお陰で、この地はオスマントルコではなくスラブ人の土地となっており我々の恩人だ」という帝政ロシアと旧ソ連時代のメッセージがウクライナでも自然体で残っていたのです。
今回のプーチン氏のウクライナ侵攻がなければ、少なくともウクライナ南部では反ロシア感情は高まる理由もなく、スヴォロフ将軍の像は放置されていたと思います。旧ソ連共産主義時代の高圧的な権威主義に対しては、ほぼ地域全員がロシア語を話す南部でも嫌悪感が高く、故にレーニン像は早々と撤去されましたが、オデッサ市のスヴォロフ将軍像が撤去されたのはロシア軍侵略から11カ月後の先月2023年1月です。ケルソン市に至っては笑えるエピソードがあり、ロシア占領軍がケルソン市占領維持不可となって撤兵した2022年10月にドニプロ川南部のスヴォロフ将軍像をロシア軍は略奪して持ち帰った、撤去する手間が省けたと現地友人から聞いています。ケルソン市のスヴォロフ将軍像は、あまり大きくない立像で、少し情けない見た目だったのですが、汎ドニエストル共和国では騎馬将軍像ではるかにカッコよく、こちらは撤去される予定はないです。
2022年12月から2023年1月まで、ドイツ到着後、鉄道にて(EurailPass)ルーマニアに入り、そこからCluj-Napoca, Suceava, Lasi経由で陸路でモルドバ首都、キシニエフに入りました。途中Suceavaで観光ガイドを雇い、ユネスコ世界遺産指定の修道院を複数回ったのですが、そのガイドさんがルーマニア、モルドバと旧ソ連の関係について多くの役立つ話をしてくれました。
(2)ルーマニアとモルドバ・旧ソ連との関係
ルーマニアは今回の主役ではないのでルーマニア人ガイドが話した要点を引用します。
ルーマニアはスラブではなくむしろイタリア語、フランス語、スペイン語のようなラテン語族であり、なぜポッコリとスラブ人に囲まれた地域に存在するか、自分が中高年となった今でもわからない。
ルーマニア北部都市のSuceava近隣は山岳地帯で鉱物だけでなく、森林資源が豊富で、オーストリアハンガリー帝国領土として今のウクライナにあるチェルニブツイ、そしてルボブ(Lviv)とは国境も無く、人と物流街道が行き来していた経緯がある。ルーマニアの工業地帯は西側のハンガリー国境に近い所に集中し、東側のモルダビア地域は農林業が盛んだが貧しかった。
ルーマニアは第二次世界大戦時にドイツ側についてしまった結果、スターリンの旧ソ連に東側の多くの領土を奪われ、そこが現モルドバとなった。元々の住民は皆ルーマニア語を喋るルーマニア人だ。現ウクライナのチェルニブツイあたりもスターリンに奪われ、ソ連のウクライナ共和国に編入された。
その後旧ソ連は貧しかったモルドバ地域を西側諸国に見せつけるために工業化を推進したが、それはウクライナ国境に近いモルドバの東部に集中し、そこに旧ソ連の貧しい国民達が職を求めて巨大な全国中から移民してきた。一番工業化が進んだ地域が東側、つまり汎ドニエストル共和国の地域だった。
(3)ソ連崩壊後、ロシア語文化住民とルーマニア系住民の衝突
1991年のソ連崩壊までは、モルドバもソ連の15共和国の一つとして、当然にロシア語が公用語という環境で70年を過ごしていた訳です。これは世代で言うと2~3世代に渡る長さです。しかし、ソ連は名目上であり実質上はロシアによる占領だと感じていた人々もバルト三国のように居た訳で、元々スラブ民族ではなくルーマニア系だった大多数のモルドバ国民の意見を背景に、独立モルドバは公用言語をロシア語からモルドバ語(=ラテン語系であるルーマニア語)にし、それまで平等又は支配階級だったスラブ系の人達からすると、「ソ連内のエリート階層として工業化の進んだ地域の支配階層から、突如小さな国の少数派の立場に転落し、しかもその地域言語が出来ないと公務員には成れないし、昇進も出来ない」という環境になった訳です。つまり、ロシア以外の旧ソ連諸国、特にバルト三国でロシア系住民に起こった事と同じ、生活環境の劇的変化が起こった訳です。
これら歴史的背景を知る現地ロシア系住民からすると、「(モルドバが)ルーマニアに吸収合併されて、スターリン時代の前の状況に復興する」という噂は許容し難く、ソ連崩壊直前1990 年 11 月にトランスニストリア共和国北部のドゥバサリで、沿ドニエストルの分離主義者とモルドバの間で小規模武力衝突が発生しました。ソ連崩壊後、1992 年 4 月中旬、旧ソ連の軍事装備の分割に関する合意の下で、モルドバは独自の国防省を設立しモルドバ領内の旧ソ連軍事装備の大部分はモルドバが保持する予定でしたが、1992 年 3 月 2 日から、モルドバと沿ドニエストル側で軍事行動が激化。旧ソ連の第 14 軍は最終段階で紛争に突入し、沿ドニエストルの分離主義者側に寄り添った形でモルドバ側に対して発砲 、約 700 人が死亡し、 それ以来、モルドバ政府は沿ドニエストル当局に対して影響力を行使出来ていません。 1992 年 7 月 21 日に調印された停戦協定が現在まで維持されています。
(4)人口と民族
2022年時点で、汎ドニエストル共和国人口は36万人と、ウクライナの小都市程度の人口です。民族的にはシェアの多い方から、ロシア人が29.1%、モルドバ人が28.6%、ウクライナ人が22.9%とこれだけで人口の80%を占めます。スラブ系が過半数な訳です。
一方、モルドバ本土は人口260万人、民族的にはモルドバ人(ルーマニア人)が82%ですので、モルドバがルーマニア化を図ったり、ルーマニアに吸収合併されるという噂にはある程度は現実性がある数値に見えますが、現在のモルドバ政権は分離派を不用意に刺激するのを避けるため、敏感になっており、ルーマニア語と同一言語なのに「モルドバ語」と主張しています。
2.ルーマニアからモルドバ首都キシニエフ経由で陸路汎ドニエストル共和国に入域
(1)ルーマニア北部Suceavaから国境の街ヤシ(Lasi)へ(ルーマニア国鉄)
当方はユーレイルバスをドイツのフランクフルトで有効化して鉄路にてオーストリアのウイーンまでICE(ドイツの新幹線のような高速鉄道)で来ました。そこからはルーマニア国鉄の寝台夜行特急で、乗継のCluj-Napocaまで来て、そこからルーマニア北部山岳線の急行列車でSuceavaまで行きました。Suceavaはルーマニア首都ブカレストから直通列車があるほどの街でした。
Suceavaで数泊して、ユネスコ世界遺産の山岳修道院群を見た後で、SuceavaからLasiまで快速列車に乗りました。3時間程度の旅です。列車は地域快速で指定席は無く、2階建て4両編成の客車が電気機関車に牽引されていました。
(2)ルーマニア国境の街ヤシ(Lasi)からバスで国境越境し、モルドバ首都キシニエフへ
このレベルの移動となると、インターネットで探しても完全な情報は出てきません。ある程度行ってみるしかないという状況になります。
乗り合い民間バスが1時間おきに出発している為、それでキシニエフへ。切符は片道US$16程度。
国境の入国管理から2時間程度でモルドバ首都キシニエフに到着すると、市内バスターミナル(発着先により複数に分かれている点要注意)に着くまで市内は渋滞。どうやら本来の正式なバスターミナルではない、街中の便利な場所が降車場所になっているようで、そこで降りたら、宿泊予定のAirBnbアパートは徒歩5分でした。モルドバの様子は今回の主役ではないので、機会が有れば別途、書きますが写真は付けておきます。
(3)モルドバ首都キシニエフから国境を自動車で越えて汎ドニエストル共和国首都テイラスポルへ
以前、お笑い北朝鮮というフレーズが流行ましたが、汎ドニエストル共和国は果たして北朝鮮並みに困難なのか、そもそも外国人入国への情報はインターネットでも「事前に登録しないと不可」「入国管理官にその場で現金払い入国ビザ発行する場合もある」等、バラバラであり、当然に当方が旅行時に第一義的に利用するLonely Planetという英文旅行誌でもビザ取得については「変更が多いので常時確認せよ」という注記。 ましてや、ロシアのウクライナ侵攻により、最短のウクライナのオデッサ市からの国境は閉鎖となり、ロシア軍がモルドバ侵攻をするという噂が日英メデイアに頻繁に出ている2022年12月の時点での状況はインターネットでは日英露語でどれが最新&正しい情報なのだかは不明でした。
本来はテイラスポルまで乗り合いバスで国境を越えて行く予定をしていましたが、あまりに情報が不明なため、前日夜にテイラスポル現地ガイドツアーを企画している数社に連絡を取ってみました。すると1社が「少し余計に払ってくれるならば、最近自家用車買ったので、キシニエフに迎えに行ってもいい」と英語で返答くれたので、急遽そちらに予定変更。現地でIT系会社に勤める比較的に若い現地人が副業で英語ツアーをしているというので、夜明け前の朝6時に宿泊先のキシニエフのタワーマンション1階にて待ち合わせ。
たぶん15年落ちの小さな韓国車(ヒュンダイか起亜)で深夜のキシニエフからテイラスポルへ。途中国境が近くなって夜明け前の朝焼けが少しずつ闇夜を照らし始めて、周囲の景色が見えてきました。ウクライナ南西部、つまりオデッサやミコライエフあたりと類似のなだらかな丘が続く道。
国境(と呼んでおきます)を超える際には3つのチェックポイントを通過します。以下の順番でモルドバから汎ドニエストル共和国に通過します。朝は暗くて写真撮れなかったので、帰路の乗り合いバスから半ば隠し撮りした写真を以下の順番通りに付けておきます。(帰路は順番逆です)
モルドバ税関
OSCE平和駐留軍(恐らく平和維持軍の名目でロシア軍が過半数)
汎ドニエストル共和国入国管理官
3.汎ドニエストル共和国潜入:内部の様子
潜入か入国か、果たして入域なのかは議論の余地がありますが、あまりに往訪し難い雰囲気と近隣のウクライナがロシア軍の戦争状態にあるため、「潜入」としておきます。往訪した順番で観光名所であろう場所を提示します。
(1)テイラスポル街中の様子
人口13万人ですので、日本で言うと千葉県成田市や北海道小樽市、群馬県伊勢崎市、福岡県大牟田市の都市規模です。確かにそういう規模で雰囲気も少し似ています。街中の通りはウクライナの中規模都市とそっくりです。旧ソ連時代には人口規模により、バス、トロリーバス、路面電車、地下鉄というようにインフラが整備されていったため、ああ、ここはトロリーバスのある街並みねというと、逆にトロリーバスだけある都市は皆見た目が似ているのです。ウクライナだとロシア軍に占領されて解放された人口は倍以上の30万人、わが故郷ケルソン市と似た景色です。
次は議会ビルです。朝の光の関係で見えにくいですが、手前に鎮座するのはレーニンの胸像です。ウクライナやバルト三国、或いは去年訪れたグルジアや親ロシアのアルメニアでさえも、ソ連崩壊後早々と撤去されて、もはやこれは見ないので、懐かしい気持ちです。北朝鮮やキューバにはこれはまだあるのでしょうか、興味津々です。
テイラスポル市の全貌を見渡せる東京タワーやスカイツリーはありませんが、ガイドさんが知人の住む高層アパートに登ると市の全貌が見えると言うので、スペイン・カナダからの好奇心満々の旅行者と合流して回る事にしました。
こうして上から見ると、結構高層のアパートが多いのがわかります。これはウクライナ東部激戦地となったカーキブのような大都市もそうですが、より小さな都市だとチェルノブイリ原発の横にあった物理学者や原子力研究者のソ連エリートの家族を集めて作った未来都市プリプヤット(人口5万人程度。今は廃墟)を2021年11月に見た時と似ています。旧ソ連時代に工業化を進めた地域は、ソ連全国から高い賃金を求めて労働者が移住してきたので、皆の共通言語としてロシア語を話す居住者が増えたという、ウクライナのドンバス地域(ルハンスク市やドネツク市)同様の背景が見えます。
次にガイドさん曰く、まずは3外国人に目覚めのコーヒー試してほしいとの事で、市内の中心の通りである「10月25日通り」のカフェに立寄り。現地通貨は汎ドニエストル共和国のみで通用するルーブルでUS$1=134円=16ドニエストルルーブル。で、メニューを見るとウクライナ以上に激安です。16ルーブル(ロシア語では「16p」に見えます)が$1=134円なので、エスプレッソやアメリカンは皆$1以下。100円ぐらい。Wifiもあり、若い女性がコーヒー作ってくれます。東京で言うと銀座目抜き通りの位置に相当する10月25日通りにあるカフェの価格です。
では、観光名所めぐりです。ガイドさん曰く、インスタ映えしそうな場所が人気だそうです。まずは「戦車記念碑」。片道一車線のメイン通りが広くなってから左側に出てくる記念碑です。ソ連のナチス戦勝利を記念しており、横には戦死者の記念碑もあります。
さらにその通りの反対側には冒頭にご紹介した騎乗のスヴォロフ将軍像があり、そこには汎ドニエストル共和国を正式承認した世界3カ国の国旗が掲揚されています。「いやちょっと待って。正式に承認した国?ロシア、キューバ、北朝鮮?」と我々が聞くと「残念ながら全て不正解です。正解は南オセテイア、アルトサク共和国(別名ナゴルノカラバク)、アブカジア、と全て国家承認を受けていない地域です」
(解説:南オセテイアは国際的にはグルジア領土として認識されているが、ペルシャ語系オセテイアンがロシア軍の協力を得て2008年より不法占拠中。アルトサクは、通称ナゴルノカラバク地区、国際的にはトルコ系イスラム教徒アゼルバイジャンの領土ながら、歴史的にキリスト教徒アルメニア人が居住。アブカジアはイスラム教徒のアブカジア人が国際的には黒海東岸沿いのグルジア領土をロシア軍の支持を得て不法占拠中。すなわち、全て旧ソ連に内包していた部族・宗教・民族問題のある地域が世界から国家承認を得れないためにお互いを承認し合っている状況。南オセテイアとアルメニアは当方は2022年11月に現地往訪。また別途時間あれば書きます)
(2)ドニエステル川西岸のベンデル市往訪
次にドニエストル川の西岸にあるベンデル市に行きます。はい、通常は汎ドニエストル共和国の説明は「ドニエストル川の東岸を親ロシア分離派が占拠」とありますが、実は西岸も一部汎ドニエストル共和国の領域になっているのが実際に往訪してわかりました。それがベンデル市でテイラスポル市の中心部、先ほどの戦車やスヴォロフ将軍像からトロリーバスに乗れば30分程度で到着します。
ここでは1992年のモルドバ側と汎ドニエストル共和国分離独立派の最も激しい銃撃戦の弾丸跡が残る駅周辺の建物がある一方、現在この地域は文化的な彫刻が多い場所で、ロシアの有名な詩人、アレクサンダープシュキンの像やレーニン像があります。
ガイドさんは午後から本業のIT関連の仕事があるのでベンデル市内のインスタ映えする場所で現地解散で良いかと聞かれましたが、スペイン人、カナダ人と自分と似た好奇心旺盛な旅行者と一緒なので全く問題ない、自分達で帰れると判断し、この後は外国人3名のみで行動しました。旧ソ連時代は西側外国人がガイド無しで写真撮りながら英語喋って歩いていたら、制服を着た警察官から秘密警察まで注目を浴びたのでしょうが、そもそも制服を着た人達を見かけない点、そこは現在のウクライナやモルドバ同様に全く自由な雰囲気でした。
その最後にガイドさん連れて行って貰った解散した場所、これは卓越した観光資源でした。それはソ連時代からそのままに残るレストラン、というか労働者食堂という趣の場所です。意図的にソ連時代・共産主義時代の内装・客対応(悪くない)を残し、且つ、値段がソ連崩壊時に戻ったのではないか、いや単に30年間改装する資金が無かったのかもしれない、という、西側外国人の我々にとってはお笑い汎ドニエストル共和国に相応しい強烈なエンターテインメントでした。
日本や米国、欧州にあるようなノスタルジックな歴史レストランだとその分値段が上乗せになっていても仕方ないという理解ですが、このレストランはあまりに値段が安いので、ソ連時代同様に普通の勤務者や近所の人達が来訪して結構混んでいるのです。どうも観光客がターゲットという意図が無く、値段や盛り付け量を見ると、本当に30年前のソ連崩壊時代から何も変えていない、そこに我々西側観光客がたまに来てこれを発掘して大興奮して帰って行くと言うパターンのようだなとスペイン人・カナダ人と認識合致しました。
この食堂を出てテイラスポル市にトロリーバスで戻る前に、短時間で生鮮品(野菜・肉・魚)の市場を3名で回りました。雑踏を踏み分けて歩きましたが、その感覚はウクライナの街の市場と全く同じ雰囲気で、この地域が特別だと言う感じもしませんでしたし、例えばウクライナ内で唯一違和感を感じたクリミア半島の歴史的軍港セバストポリのような圧倒的で高圧的なロシア文化圏の雰囲気も無く、人が柔らかい感じは本当に地理的にも近いウクライナ南部とそっくりでした。
4.現地往訪後の汎ドニエストル共和国についての考察
(1)ロシアのウクライナ侵略に加担する可能性
モルドバ内での汎ドニエストル共和国の立ち位置を経済的に見ると、良く見えてくるデータがあります。人口ではモルドバ内の17%に過ぎないこの地域はソ連崩壊直前の1990年にはモルドバ国家内のGDPの40%を叩き出し、発電量ではモルドバ国内需要の90%を発電していたというソ連内でも有数の重工業集中地帯だったのです。その時期の産出高を見ると、鉄鋼業、電力発電業と製造業(繊維産業)の3大セクターで域内産出高の80%を占めていたという重工業地域だった訳です。但しその後ソ連崩壊後、何故か計画経済に走り、当然に大失敗し、国営企業民営化と市場経済に転換した混乱期があります。
汎ドニエストル共和国の中高年以上の住民にとってはソ連時代がノスタルジーであり、そこに戻りたいが、もう戻れないし、少し期待していたロシアが、独裁者プーチン氏の独断で、自分達ソ連時代は同胞だったウクライナ人を殺戮・略奪してでも強制的にロシアの支配下に置くと言う時代錯誤の帝国主義の方向に向かってしまって、ロシアへの夢やノスタルジーが一気に醒めてしまった感じを感じました。
汎ドニエストル共和国は事有る度に、親ロシア派がモルドバからの独立分離を模索しているが故に、対ウクライナ攻撃に親ロシア派が参加するのではないかと噂されています。しかしながら、汎ドニエストル共和国大統領は早々と中立を宣言しているのはあまり報道されない点、残念です。
https://www.jpost.com/international/article-700476
ロシアがウクライナのケルソン市を占領持続し、隣のミコライエフ市も占領するに至ったら、残る大都市はオデッサ市だけとなり汎ドニエストル共和国内の極右ロシア派も勢いづいたでしょうが、それと逆にロシアはケルソン市から撤退を余儀なくされ、ウクライナの黒海沿岸を全てロシア占領下にして汎ドニエストル共和国まで連続した回廊を作りウクライナの黒海接続を封鎖するという野望は完全に消えました。
その状態で多くて1500名程度のロシア平和維持軍がウクライナに宣戦布告したら、逆に30年続いた静かな停戦状態は崩壊し、NATOの武器弾薬支援とルーマニアの各種支援を受けたモルドバ軍とウクライナ軍に挟まれて軍事的には勝ち目はないです。地図を見て頂くと、モルドバも汎ドニエストル共和国も黒海には接しておらず、両国近隣の黒海沿岸は全てルーマニアとウクライナ領となっていますので、ルーマニア沿岸への攻撃はNATOへの攻撃となりロシアがウクライナに加えて分離派を援助出来る余力はないです。
何といっても、今回の往訪で感じた現地の人達が持つ戦争に対する強い嫌悪感は30年前のモルドバ当局との紛争がかなり効いている感じであり、1年前にロシア軍の侵攻経路を推察した通りになった当方の現地感覚をまた使うならば、汎ドニエストル共和国全体がロシアのウクライナ侵略に加担する可能性はほぼゼロと言えます。
今回聞いた話では、ロシア国籍とパスポートはほぼ無料に近い金額で申請すれば取れるが、それを望む人が多くない、その理由は兵役に招集される可能性もさることながら、ロシア国内に望ましい職業キャリアパスが無い、自分の人生の未来がロシアパスポートでは見えないからという認識があるそうです。一方でモルドバ国籍はコストはかかるが、EUにビザ無し渡航出来るモルドバ政府パスポートはより望ましく、更に、既にEUとNATOメンバーでもあり、ビザ無し渡航だけでなく、自由にEUで働けるルーマニアパスポートのほうは日本円にして数十万円のコストがかかるが一番人気があるのだそうです。汎ドニエストル共和国の人達は想像以上に現実的です。故に苦戦が続き大義も無いロシア軍に加担するという考えにはウクライナ出身者は当然嫌悪感がありますが、その他のロシアや旧ソ連共和国出身者も相当醒めている印象でした。
既に一度、ロシア軍のウクライナ侵攻後に、汎ドニエストル共和国の右派親ロシア分離派がウクライナ軍のフリをした偽の攻撃を汎ドニエストル共和国警察に対し仕掛けましたが、身元が判明してその後全く静かになっています。ロシアのプーチン氏からすると偽の攻撃(false flag operation)を仕掛けて汎ドニエストル共和国をウクライナ背後からの脅しに使いたいのは現地の土地勘がある当方にはよく理解出来ますが、その際にモルドバ政府が「緊急避難を希望する人には無条件・コスト負担無しでモルドバ政府のパスポート発行する」と言ったら、戦闘員となり得る年齢層成人男子の8~9割はそちらに反応し、実際にプーチン氏の援助に行く気のある男性は1割も居るかという感じだと推測します。何故か? 汎ドニエストル共和国では自由にインターネットが繋がるからです。ロシア本国のロシア人達より遥かに国際情勢が見えています。
(2)汎ドニエストル共和国の将来について:当方私見
では、人口30万人の小さなこの地域は一体どうやって経済成長を狙うべきなのか?こちらは一気に明るい話題になりますが、地元ガイドも含めて、汎ドニエストル共和国の将来は観光産業にあるという認識が広まっているそうで、その証拠は各所で見ました。政府は外国人観光客の入国は「どうぞ」という感じであり、また撮影も行動も全く自由で、制服を着た人の数が多くなく、その意味では旧ソ連や現在のロシアのような強権主義の匂いがしない、ウクライナ国内に近い自由な雰囲気があります。 しかしながら観光客が喜ぶので、30年間改装をしなかった結果としてレーニン像から戦車記念碑から、果ては食堂もそのままで、国全体を「旧ソ連のテーマパーク化」したら、手ごたえがあると感じているのが2023年の状況でした。
古いデータしかありませんが、GDP Per Capita (一人当たりGDP)は$2,000、国のGDP全体でもUS$1Billion(10億ドル=1340億円)なので、観光客が一人滞在中に$100使ってくれて年間で10万人(一日300名)も来てくれればGDPは1%程度は上昇するはずです。宿泊施設が出来て、一人滞在支出$300、年間36万人(一日1000名)もくればGDPは10%程度も伸びます。
もちろん、ロシアのウクライナ侵略戦争が終結する事が観光客急増の条件ですが、将来の復興を考える際の戦略ビジョンは必要です。
当初は旧ソ連諸国のノスタルジーを共感する客層をターゲットにし、同時に民主主義諸国でも怖いもの見たさの共産主義社会の生活を体験する冒険的層にアプローチすれば十分達成可能な数値です。旧ソ連諸国は約3億人が居ました。また適切な国際空港が汎ドニエストル共和国内に無いため、来訪客はモルドバのキシニエフ空港かウクライナのオデッサ空港を経由するため、そちらでも観光支出が落ちるビジネスモデルになります。両国にとって外貨獲得は必須なので、いずれ崩壊するプーチン氏のウクライナ侵攻作戦後は汎ドニエストル共和国はそうして若干両国に恩を売れる立場になれます。
どちらかと言うと暗い、親ロシア派が立てこもるイメージから、大きな発展も設備投資も無かった30年間を逆手にとって地域全体を旧ソ連のテーマパーク化して、財政状況の悪い中で新たな設備投資と資金調達をせずに、出来る範囲で外国人の観光消費により外貨を稼ぐ手法で国富を増やし、少しずつ重要な部分から設備投資をしていく形で国家成長を狙う事は可能だと思います。
自国政府の渡航情報等はチェックして、自分のリスク判断をする事は言うまでもありません。土地勘や現地文化言語知識等によってもリスク判断は個別の差異があると思います。しかしながら、欧州に残る最後の秘境にご興味のある方は欧州最貧国内の最貧地域と言われても、きちんと治安も維持して昔の世界のまま生きている隠れた宝のようなこの地域の貴重さを見て頂く価値はあると思います。
また時間があれば、グルジアとアルメニア往訪についても書いていきます。
ありがとうございました。
はらただゆき
Special thanks to FlorinGuide Bucovina in Suceava, Romania and Mr. Anton Dendemarchenko in Tiraspol. Without your sharing your knowledge with me, I would not understand as much.
大変恐縮でございます。拙文、宜しくご笑納頂ければ幸甚です。原 忠之(はらただゆき)