下駄を履かないとできない「取材」という仕事
「東京在住、正社員、男性」がこれからしんどくなりそうだという記事が、TwitterやNewspicksで取り上げられていたのを見ました。(マネー現代:サラリーマンを待ち受ける悪夢、「東京在住、男性、正社員」がヤバイ!https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65251)
「新卒でその会社に入り、会社に出社でき、長く勤められる男性というだけで、実は“下駄”を履かされている」「そうした人たちの既得権は終わる」という指摘です。言葉はキツいですが、確かにそうかもというところもあります。そして「下駄」という言葉が、とても引っかかりました。
文脈は違うのですが、新卒で記者になり、その後編集者として働いている私は、日々とんでもなく高い「下駄」を履いているなぁと常々感じるからです。
メディアの名前が入った名刺をもっていると、社長や知事、市長、署長などとても高いレイヤーの方々に会いに行って、取材をさせてもらえる。知識も経験も圧倒的に不足しているにも関わらず、同じ空間に居させてもらえて、話を聞かせてもらえる。下駄が高すぎて、いつも危なっかしい。気づくと汗だくで取材していることが多々あります。
また、ありがたいことに、その後も個人的なつながりを持たせてもらえたり、圧倒的な大人ばかりの飲み会に誘ってもらえたりすることがあります。そういう時は口数少なく黙っているのですが、それは楽しくないからではなく、一言でも多くお話してもらって吸収したいからです。私が話す時間がもったいない。
でもそれを、100%自分の力だと勘違いし始めると危ないなと思います。ブランドの力や、メディアという仕組みにあやかって、すごい人たちと対峙させてもらっているのです。
単に偉い人と会えるということだけなく、記者のときには一般のご家庭に突然「話を聞かせて下さい」と上がらせてもらったり、アポなしで営業中のお店に「取材させてください」と頼み込んだり、そういうことを許してもらえたのも「下駄」だと思います。普通は許されないことが許される、それを当たり前だと思わないようにしないと、と言い聞かせています。
いつか編集者/記者として成熟したときに、下駄じゃないと感じるようになるのか、それとも一生、高い竹馬にフラフラ乗っているような気持ちなのか、今はわかりません。わかっているのは、この仕事をしている以上、下駄を履かせてもらった分は、記事で還元するしかないんだろうなということです。もっと頑張ります。