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近況と、ちょっと教育について
近況のメモ。クリエイティブ系の仕事が続いていたので、それ以外で集中して何かを考えるということをあまりしていない。統計学やらフランス語やらをちょこちょこと勉強する日々。フランス語に関しては、こちらの本で文法を総ざらいしつつ、Le monde diplomatiqueを読んだり、アプリで単語の勉強をしたり、そんな感じ。
酒を飲みながらTV 5 monde apprendreというサイトで自分のフランス語のリスニングのテストをしてみたところ、CEFRでB1という結果になり、なんとも悲しくなった。かつてはDAFL C1まで取得したというのに。ただ、そもそも「酒を飲みながら」と書いている時点でなんとも言い訳がましくてカッコ悪い。そのあたりの、過去の栄光にすがろうとしている姿勢がよろしくない。
気がむくままに色々なものをつまみ食いしているので、直線的に自分が成長しているという実感が湧きにくいし、実際になんらかの生産的な営みを生じさせているわけでもない。ただ、それはそれで良いのだろう。バタイユを持ち出すまでもなく、未来のためにいまを犠牲にする、あるいは気まぐれを押さえつけることで生産性を上げる、そこに全てを投じるという考え方自体が好きではない。「いま・ここ」の身体性に従っても当然ながら良いわけだから。バタイユにおいてそれはやがてエロティシズムへと向かうわけだが、そこまで過剰ではなかったとしても、ふらふらと日常を散歩する感覚を大切にするということ、それはそれで一つの哲学ではある。
教育系の仕事をしていると、混迷を極める世界において学生の生きる力を向上させるために、だとか、未来のリーダーを育成する上で必要な学力の三要素、だとか、生成AIが教育にもたらすメリットとデメリット、だとか、そんなことばかりに議論が向かいがち。ただ、この業界にわりと長くいると、さらに一人の親という立場も加味して言うのであれば、子供って新しい世界に出会って感動するという経験を手にすることさえできれば、あとはけっこう勝手に成長する。問題はそのきっかけをつかめるかどうかで、その辺りはうまくプロデュースしていく必要があるとは思うし、その辺りを生業にして個人的には飯を食っている。学問に関しても同じことが言える。根本的に学問をするということは、新たな知と出会うことで自分が変容し、自己の変容にともない世界が変容するということ。その意味で、例えば本を読むという行為と旅は近似する。だから、学問は根本的に非常にダイナミックで、大変面白い。そんな話ばかりいつも学生にはしている。
例えば学生が生成AIを使ってレポートを書き、そのことに気づかなかった採点者が高評価を与えた。それはそれで問題なのかもしれないが、個人的には興味をあまり惹かれない。なぜなのだろうか。おそらく、知的な営みにおいて採点する側とされる側がいるという、その構造そのものに興味がわかないからだろう。知に触れるということは食欲や性欲と同様の本能的な喜びを喚起するものであり、それはあまりにも個人的かつ身体的なものであるが故に他者の尺度を介入させる隙を持たない、おそらくそう考えているからなのだと思う。
ということで、左耳が若干痛くて頭痛がする。そうは言っても緊張感のある日々が続いているような気もするので、うまく休息を挟みつつ、仕事においてはゲーム感覚で、具体的な数値成果は出し続けていく。