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パリに留学していた頃のこと

2008年から2009年にかけて、パリに約一年間留学していた。バラク・オバマが大統領になり、マイケル・ジャクソンが死んだ年だ。フランスのシュルレアリストにして演劇家、アントナン・アルトーを研究するため、という名目だったものの、在籍してたパリ第十大学が教授たちのストライキに入ったことを良いことに、やがて留学は遊学に変わった。その期間に美術館巡りをし、劇場巡りをし、モロッコのマラケシュを一人旅したりと、気ままな二十代の最後を謳歌した。

一年間にわたる留学生活の、前半の数ヶ月はパリ郊外の大家族一家に、その後は当時80代の元貴族にして元グランゼコール教授の男性宅にホームステイをした。ベルナール・カロン・ドゥ・ラ・カリエール。その祖先はマリー・アントワネットの告解師という彼との生活は、私のフランス留学における最大の学びの源泉と言えるだろう。

エッフェル塔の隣、ミラボー橋がかかる駅からわずか数分の場所にそのアパルトマンはあった。重厚なドアを開けるとすぐ左には銀食器が並べられた丸いテーブルがある。少し歩くとソファーとタペストリー。私の部屋は、廊下を少し行った右側にある。部屋のほとんどをふさぐベッドと小さな木の机。そしてパリの冬にはあまりにも頼りないオイルヒーター。

お互いの生活には基本的に干渉しない。カウンター式のキッチンがあり、食事もそれぞれが勝手に作り、勝手に食べる。貧乏学生だった私は近所のスーパーで買ったクスクスをお湯で戻し、同じく近所のピカールで買ったラタテューユをレンジで温めてクスクスにかける。それに赤ワインかアムステルダムビールがあれば、十分な夕食だ。時にクスクスはバゲッドとロックフォールチーズに変わるが、そもそも食に多くを求めはしない。フランスの硬い水は、精神からぜい肉を削ぎ落とす。

ムッシュは(私は彼のことを心の中で「ムッシュ」と呼んでいた)よく、ブロッコリーを茹でて食べていた。これが健康に良いのだ、といって。今では私も、冷凍のブロッコリーをよく食べる。味付けはオリーブオイルと塩胡椒のみ、ベーコンと一緒にレンジで温めると、それだけで懐かしい味がする。

当時書いていたブログのトップページにはヘミングウェイの「移動祝祭日」の一節が掲げられていた。曰く、

"If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a movable feast."

「若いうちにパリに住むという幸運に恵まれたならば、残りの人生、どこに行こうともパリは君とともにある。なぜならパリは、移動祝祭日だから。」

あれから十五年の歳月が経った。私はどこに立っているのだろう。アリアドネの糸。時間を貫いて私を導いてくれるものは言葉だ。

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