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パリに留学していた頃のこと part2

ルソーの『告白』。社交界から追放されたルソーが、田舎の自然の中で自らの半生をふり返り書いた作品。日本の大学院の修士課程の時に、ルソーを専門にする教授の授業で扱った。同時代の理解者を失ったルソーは、この本の中で自分のことを真に理解してくれるのは後世の読者のみである、と訴える。

パリに到着して一週間ほど経った頃だろうか。役所がらみの事務的な手続きを終え、初めて大学の図書館を訪れた。安っぽい木の机と薄暗いコピー室。東京の私立大学の小洒落た図書館とは比べるまでもない、パリの場末の国立大学の図書館の一角。そこで一人、当時、運営していた日本語のブログを執筆していると、自分が本当に異邦人としてこの地にいるということを実感した。いま、自分の頭の中身を丸ごと読まれたとしても、ここにいる誰もその内容を理解することはできない。私のことを理解してくれるのは遠く離れた日本にいる、おそらくはこの文章を読んでいる読者だけである。

パリに住みはじめて間もなく感じたのは、その時間の流れ方の違いだった。当時のブログに、プルーストが『失われた時を求めて』を書いた理由がわかる気がする、という趣旨の文章を書いた。実際、パリに住んでみると、永遠の「いま」が流れゆき、気がついたら死んでいた、ということがありうるような気さえしてくる。

カタコンブ。日本語だと地下納骨堂、と訳されるようだが、パリの地下には600万体の遺骨が納められている洞窟がある。一度、カタコンブを見学したことがあるが、全長1.7キロの地下道の壁全面が骸骨で覆われていた。パリの地下には死、あるいは永遠に停滞した時間がある。

一方で、パリの地表では時間が幾重にも重なり合う。この場所で、千年前にはこんな事件が起きた。五百年前にはこんなことが起き、百年前にはこのような出来事があった、というように。地下によどむ無限の時間と地表を覆う重層的な時間のなかで、定点を失った「いま」が漂う。東京において感じる常に切迫した「いま」とは異なる、常に相対化されつづける「いま」の感覚に、ヨーロッパの深みを感じた。

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