『愛と幻想のファシズム』
村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んでいる。村上龍には一時期ハマったことがあり、その世界観に慣れているせいか、例えば島田雅彦の『パントサーカス』と比べると、その物語の圧倒的な強度を感じる。よくもまあ、ここまで大胆なことを書けたものだと、その極端にまで突進するエネルギーに驚嘆する。弱者に対する同情を一切禁止するという、まさにニーチェが唱えてた文脈、そしてそれはナチスにまで及ぶのだが、それを20世紀の日本に置き換えた小説。奇妙なリアリティがある。先日、Netflixで「ミュンヘン 戦果燃ゆる前に」とい映画の前半部分のみを見た。ナチスが台頭する直前のドイツの雰囲気が生々しく描き出されているのだが、第一次世界大戦の敗戦により経済もプライドもズタボロになったドイツ人たちの、その恥辱を払拭するがためにヒトラーを英雄視する姿に、経済不況にあえぐ日本に現れたトウジという主人公の姿を重ねる。
「マインドフルネス」という言葉を初めて知ったのは、いまから10年近く前の話。スタンフォード大学のリーダーシップ研修に参加したときのことだった。いま、ここに集中する。ヒッピーたちのバイブルだった『Be Here Now』のタイトルそのままに、いま、ここ以外のいかなる想念も発動させない。それはともすると呪いに満ちた、つまり常に怨恨を湯水の如く浴びせかけられるこの世界において、サバイブしていくための非常に有効かつ功利的な手段でもある。純粋にこの命を生きながらえさせる手段として、あらためてマインドフルネスの必要性を感じる日々が続いている。
内田樹の『呪いの時代』は、実はいまの世界において必読の書なのかもしれない。六条御息所が葵の上を呪い殺すことが可能であった平安の時代、当時と同レベルの強度で、現代は呪いの時代である。呪いを解除するには「国誉め」しかないのであろうか。内田樹が言うように、現実の事物の名を唱えることで、決して記述し切ることのできない世界の豊潤さをあらためて認識させる。圧倒的な現実の豊かさにより、呪いを封じ込めることができる。
イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』ではないが、半分死んでいるからこそ生き延びることができる、ということもある。
特にビジネスの場面においては、たましいを半分殺さなくては優秀とは言えない。世界と私との間に真空を作る。すべての物事は海の向こうでの出来事である。油断をすると極限まで神経と体力をすり減らす日々が続くからこそ、いまこそ真空、あるいは半分の死が必要だ。
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