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真空に耳をすます。

朝起きた時には色々と書きたいことが思い浮かぶのだが、仕事から帰ってきた深夜にはそんな思いも蒸発している。それでも何か書かないとやりきれない気もするので、何とはなしにパソコンの前に座る。それが救済なのか単なる愚痴なのかはわからないが、文章を書くという行為には何らかの中毒性がある。

ルーマニアの宗教学者、ミルチャ・エリアーデが書いていたと思う、あるいはエドワード・サイードだっただろうか、いずれにしても大江健三郎のエッセイの中に出てきた"indistractibility of human existence"という概念。直訳すると、「人間存在の破壊されえなさ」ということになるのだろうか。これからなにが起きようとも、たとえ宇宙が終わろうとも、あなたがこうしてここにいてこのように苦しんでいたということを否定することは誰にもできない。それは、あなたという存在をいかなる制約もつけずそのままに受け止めるということでもある。

こちらはシモーヌ・ヴェイユが語っていたことだったろうか、同じく大江健三郎のエッセイに出てきたエピソード。たしか聖杯伝説において、ナイトが守る聖杯を手にすることができるのは「あなたはどのように苦しいのですか」という問いをかけれらた人物である、という話。鷲田清一の臨床哲学やレヴィナス、リルケ、あるいは谷川俊太郎に通底する手触りのような気もするのだが、「みみをすます」ということの本質がここにあるのではないか。「みみをすます/きのうの/あまだれに/みみをすます」という谷川俊太郎の詩は、いかにして相手を傷つけるかということに奔走するあまりにも政治的な日常において、甘露のようにからだに沁みわたる。

今日も疲れたし、明日も疲れるのだろう。覚醒している時は、あらゆる感性を殺し、職業人としての役柄を憑依させる。だからこそ、真空に耳を澄ますわずかな時間は、毎日とは言わないまでも確保しておきたいとも思うのだ。

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