中国の人々は、やはり現実的?
前回、横浜の中華街に行ったことを書きました。
中華街は今もなお多くの人が訪れ、活気も衰えていません。
そこに中国人の現実的な生命力を感じます。
中国の人々に見られる1つの特徴として、この「現実的」というものがあると思います。つまり中国の人たちは、神やあの世といった形而上学的なものよりも、むしろ「この世」という現実に立脚して物事を捉え、考える傾向にあるのではないでしょうか。
もちろん日本に仏教をもたらしてくれたのは中国ですが、その中国の仏教は原始仏教であるインドの仏教とは違い、より現実に立脚した仏教なのだそうです。
そして中国から入ってきた中国的な仏教は、日本に入りさらに日本的な仏教へ変化していったようです。つまりその国々の考え方や風習などが影響し、その国に馴染むように変えられていくのでしょう。
中国では中国の人々になじむよう、現実的な視点を持った仏教に変わっていきましたが、しかし中国国民の間にはあまり仏教は浸透していかなかったようです。
中国人の間でまず受け入れらたのは孔子が開いた「儒教」です。
孔子
儒教は膨大な教典があり、それら全てをひとくくりにすることは不可能ですが、その中心は「現実社会」に立脚したものです。
その現実とは何かと言えば、人と人との関係に立脚し、自らはどうあるべきか、どう行動すべきかといった「修己治人(しゅうこちじん)」の教えです。
儒家の1人である孟子は「天下の本は国にあり、国の本は家にあり、家の本は身にあり」としていますが、まさにこれが儒教の核心でしょう。
孟子
つまり1個の有機体である人間は、自らを修めなくてはならず、それができるからこそリーダーは人の上に立って人を治めることができるというもので、自分1人を収めることができない人間が、人の上に立てるわけがないという、当たり前と言えば当たり前のことを説いています。
(余談ですが、ちなみにこの論語の教えるところが真とするならば、今日本のリーダーとして私たちの上に立っている政治家や官僚たち、さらには大企業の経営者などは、果たして自らの身をちゃんと修めているか心もとない限りです。そんな人たちが上に立っているから日本がどんどんこんらんしていくのかもしれません。)
ですので論語が説くのは、あくまでも現世における人間としてのあり方であり、そこにはあまり神や来世といったものは出てきません。
祭祀についての作法なども論語は説いていますが、あくまでも作法をどのようにすれば礼にそっているものかといったものであり、神について直接言及してるものではないのです。
論語のこの現実性が、あるかないか分かりもしない来世に立脚する宗教よりも、現実、つまりこの世を重視する中国の人々にとって受け入れやすく、庶民の間にも広まっていったのではないでしょうか。
なぜ中国の人々がこのように現世、現実に重きを置くようになったかはわかりません。あるいは、いくつもの王朝が興っては滅んでいく現実の中で生きてきた中国の庶民の処世術として、現実に立脚し物事を考え行動するということが積み重ねられてきたのかもしれません。
いずれにしても中国の人々は現実に即したものを考え方を大切にし、それに比べると日本人ははるかに情緒的であるといえるのかもしれません。
続く。
※ 文中の写真はYahoo画像より転載させていただきました。
※ 表題の写真はYahoo画像より転載させていただきました。
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