【GQuuuuuuX】Plazmaとポッピンアパシー【米津玄師】
ジークアクス、良かったなぁ…!
鑑賞後の余韻に浸ること数日、
ついに主題歌『Plazma』が配信された。
劇場で初めて聴いた時もビビっと来た歌い出し。
主人公のマチュが初めてガンダムに乗り込む瞬間にそのきっかけとなったニャアンとの出会いを暗示するような歌詞が…とかは先日の感想記事で書いたから割愛。
とにかく名曲。
そんなPlazmaの感想を漁っていたら、こんなポストを見つけた。
この"「選び取らなかった人生の選択肢や有り得たかもしれない可能性」についての歌"って解釈を見て、米津玄師の別の曲を思い出して妄想が止まらなくなったので、それを書いていこうと思う。
まず前提として米津玄師の楽曲には、過去作とリンクしているような歌詞が含まれていることがある。
例えば、『飛燕』と『さよーならまたいつか!』。
飛ぶ燕、翼を望む人間という要素が共通して出てくる。
また、『あたしはゆうれい』と『Lemon』。
前者はタイトルの通り、死者(ゆうれい)→生者への想い、
後者は生者→死者への想いを歌った、コンセプトからして対になっている曲だ。
生者と死者それぞれの一方通行の想い、そして両者に共通するレモン。
…と、こういうノリで。(ほとんどこじ付けみたいなもんだが)
じゃあPlazmaとリンクしそうな曲ってなんだろう…と考えたところで、さっきの
「選び取らなかった人生の選択肢や有り得たかもしれない可能性」というのがピッタリハマる歌詞を思い出したのだ。
これ単体で見てもちょっとGQuuuuuuXみを感じる。
あの世界では、シャアは宿命のライバルであるアムロとも、「私の母になってくれるかもしれなかった女性」とまで評したララァとも出会えていない。
全てはあの日、シャアが自らコロニーに潜入することを選んだから。
知らず知らずとはいえ、シャアは自分の人生に深い影響を及ぼす筈の出会いを選ばなかった。
こちらは出会えなかった世界から、出会えた世界を想像する歌詞だ。
対して、Plazmaにはこんな歌詞がある。
これは出会えた世界から、出会えなかった世界を想像する歌詞。
マチュとニャアンが改札前でうっかりぶち当たっていなかったら、あのキラキラを見ることもなく、シュウジと出会うこともなかった。
あのガンダム2機によるマブは、そんな奇跡のような偶然の産物なのだ。
さらにこの2曲、もっとわかりやすく対になる要素がある。
言葉/声を飲み込んだ世界と、飲み込まなかった世界。
言えなかった世界と、言ってしまった世界。
ここに関してはGQuuuuuuX本編での何を指しているかまだ分からないが、この要素もキレイに対照になっている。
この2曲、全く逆の状態にありながらお互いの世界を『教えてよ』とか『もしも〇〇していれば』とか考えてしまう辺りがちょうど初代ガンダム世界とGQuuuuuuX世界の関係性にハマる気がしてめっちゃエモくなってしまった。
…とかなんとか考えていたら、
PlazmaのMV出とるやんけぇぇぇぇ!!!!
見ます。
…以上です。