【日記】蜂に午餐を饗する日
のどかな昼下がり。
ふと机から視線を逸らすと、
キイロスズメバチと思しき蜂がそこに留まっていた。
こちらのことは意にも介さず、ただそこで翅を休めている様子だ。
…蜂って凍らせたらどうなるのかな。
昔、生きた蝿を捕まえて急速冷凍室に入れたことがある。
数秒で動かなくなるが、取り出して少し待つと何事もなかったように動きだすのだ。
何回試しても同じ結果。
素晴らしい生命力だ。
(もちろん事後ちゃんと逃しました。)
蝿よりも比較的大きい蜂だとどうなるんだろう。
僕は蜂の後ろ側から手を伸ばした。
当然、毒針を持っている相手に無策で近付くほど愚かではない。
手にしたのはターンクリップ。
作戦はこうだ。
蜂がこちらに気付いていない間に背後から近付き、
翅を素早くターンクリップで挟む。
蜂は驚いて翔ぼうとするだろうが、ターンクリップの重みでバランスを崩す。
あとは長めの棒でターンクリップをひっかけ、リーチを確保したまま冷凍庫に入ってもらうだけ。
…完璧だ。
はやる気持ちを抑えながら蜂に忍び寄る。
ここで想定外の事態。
突然体の向きを変えた蜂と、完全に目が合ったのだ。
終わりだ。
幸い、すぐそこに置いてあるカバンには抗アレルギー薬が入っている。
万一アナフィラキシーを起こしても、搬送までの時間くらいは稼げるはずだ。
そんな僕の想定と反して、蜂は冷静だった。
目線を合わせたまま、じっと動かない…
いや、動いてはいた。
左右一対の触角を、まるで手旗信号のように曲げたり伸ばしたりしているのだ。
ひょっとしてこれは…意思疎通を図ろうとしているのではないか?
僕は最近、動物言語学というものに興味を持っている。
旧来、言語を使うのは人類のみとされてきた。
その固定観念を取り払い、
生物はそれぞれ自分の持っている能力を駆使して彼らなりのコミュニケーションを取っているのだ…と見て、分析するのが動物言語学だ。(多分)
つまり今目の前にいる彼も、人間のように声を使うのではなく触角の動きで何かを伝えようとしているのではなかろうか。
右曲げ、右曲げ、左曲げ、両方曲げ。
さっぱり意味は分からないが、僕も両腕を使って同じ動作をしてみる。
右曲げ、右曲げ、左曲げ、両方曲げ。
彼は不思議そうにこちらを見ている。
コミュニケーションの基礎とは模倣である。
内容は分からなくとも、相手と同じ『言葉』を返せば少なくとも対話の意思があること自体は伝達することができるはずだ。
彼は何かを試すように、右触角をゆっ…くりと曲げた。
僕はそれに応え、右の腕をゆっ…くりと曲げる。
これで彼も、眼前の巨大な怪物が自分の行動を真似ていることを確信したはずだ。
この工程を経て、お互いに害意のないことのコンセンサスが取れた。
(冷凍庫に入れようとしていたのは内緒である。)
となると、なんだか急にこの小さな客人のために何かもてなしをしてやりたい気持ちが湧いてきた。
蜂の喜ぶものと言ったら、甘いものだろう。
ちょうど、頭を使うときに食べようと思ってたブドウ糖タブレットがあった。
お近付きの証として、これ以上ない品じゃないか。
持って帰ったら女王陛下の覚えもめでたかろうよ。
ハッチー(仮名)を驚かせないように、そおっと彼の前にタブレットを置く。
そして自分は一歩引く。
動物にモノを与えるときの基本動作だ。
ハッチーはゆっくりと歩を進め、タブレットを舐めるような動作をした。
しかし、蜂の顎にはカチカチのタブレットは硬すぎたようで、匂いを確かめてすぐ興味を失ってしまった。
これは配慮に欠けていたな。
急いでペットボトルキャップに水を注いで、先ほどのタブレットをカッターナイフでこそぎ溶かす。
先ほどと同じように、キャップをハッチーの前に差し出し、一歩離れて見守ることにした。
甘い香りに気付いた彼は、少し警戒しているような様子を見せながらも甘露に口をつけた。
一度味を確かめたらもう周りのことなどお構いなし。
上半身が浸かるくらいの勢いでがっつき始めた。
…あぁ、自分のしたことでこんなに素直に喜んでもらえるなんていつぶりだろうか。
料理人冥利に尽きる。(料理人ではない)
しばらくして顔を上げたハッチーは、糖分でベタついた触角を丁寧に前脚で整えていた。
なんて愛らしいんだ!!
こんなわけで、僕のささやかな異種間交流は終わった。
最後までハッチーが何を言おうとしていたのかは分からなかったけれど、美味しい食事というものは全生物共通の幸福であるのだなぁと改めて確信した。
あと、蜂を凍らせたらどうなるかはググったら普通に動画が出てきたのでやる意味なかった。
ハッチーがまた遊びに来てくれたら、もう少し注意して彼の触角語を分析してみようと思う。