伊賀紀行2 「芭蕉足跡 蓑虫庵編」
上野城下の町中に、こんな絵がいくつも描かれていて、出迎えてくれます。伊賀、といえば「忍者」ですからね。
しかし俳句を嗜む私としましては、伊賀といえば「俳聖・芭蕉」が一等です。
伊賀は芭蕉生地なんですね。ですから、本記事(芭蕉足跡シリーズ)は、上野の町中さんぽしながら、また寄り道もしながら、芭蕉ゆかりの場所を訪ね歩いた、その記録となります。
そんなわけで、「うえのし」の駅から歩いて20分ほどのところにある、「蓑虫庵」へ、まずは行きました。
(注)「上野市(うえのし)駅」は、伊賀鉄道伊賀線の拠点駅で、周辺に伊賀上野城や芭蕉記念館、官公庁などが集積しています。「伊賀上野(いがうえの)駅」は、JR西日本の駅です。この「伊賀上野駅」で、伊賀鉄道伊賀線JR西日本に接続しているようです。両駅の間は3kmぐらい離れています。ややこしいですね。
「服部土芳(はっとりとほう)が、貞享5年(1688)3月4日に開いた庵。数日後に訪れた芭蕉が、面壁の達磨図に「みのむしのねを聞にこよくさの庵」の句を賛して与えたことが、庵の名称の由来となりました。」(パンフより)
私が土芳に惚れている理由については後述します。
(注)「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」 松尾芭蕉
蓑虫は秋の季語。秋夜「父恋ひし」と鳴くという説から。(清少納言の)枕草紙にも「八月ばかりになればちゝよちゝよとはかなげに鳴く、いみじくあはれなり」とある。大概、枝からぶらさがって危なげにゆれている。(「新歳時記」虚子編より)
(つぶやき:「静寂」のわびさびから縁遠い人には聞こえないと思う。私も聞いたことがない。笑)
[服部土芳(はっとりとほう)]
さて、蓑虫庵の庵主・服部土芳のことです。
いろいろネット検索しましたが、土芳の情報が少ないように感じました。やっと人文系データベース協議会の「芭蕉db」というものを見つけました。
「芭蕉に関する歴史的事項・全作品・関係人物集・関係書籍など芭蕉に関する総合データーベース」
(いながらにして情報入手が可能になる、ありがたい世の中です。)
このデータの一つに「芭蕉関係人名集」というのがありまして(およそ150人)、その中から「服部土芳」について、以下、引用します。
服部半座衛門保英。伊賀藩藤堂家の武士。『野ざらし紀行』の旅のおり、東上の途についた芭蕉を追って水口まできて再会を果たし、蕉門に入る。この時、芭蕉は「命二つの中にいきたる桜かな」と感動的に詠んだ。芭蕉をひたすら慕い、元禄元年3月には、伊賀上野の南郊に草庵「蓑虫庵」をひらいた。30歳の若さで藤堂藩士引退し、以後俳諧一途の生涯を送った。享保15年、享年74歳を一期として没。『三冊子』、『蕉翁文集』、『 蕉翁句集』などの著者として、師の記録を後世に残すなど芭蕉亡き後、伊賀蕉門の第一人者になる。
服部土芳のどこに注目し、惚れたかと言いますと、「芭蕉をひたすら慕い」地方にありながら「以後俳諧一途の生涯を送った」というところです。
そして、「『三冊子』、『蕉翁文集』、『 蕉翁句集』などの著者として、師の記録を後世に残すなど芭蕉亡き後、伊賀蕉門の第一人者になる。」とあるんですね。ひたすら芭蕉を慕うからこそ成せる功績です。芭蕉が後世に名を残すのも、服部土芳のような人が、全国に数多くいたからではないかと思うのです。
なので、芭蕉は一人ではないといえるかもしれません。
以上で、「蓑虫庵編」は終わりです。
さあ、次。「芭蕉生家」へ。
2024.5.26
(2024.5.29記)