改造詩人弐拾玖号「泡沫の人魚」
群れを離れて渚に横たわる 一人の獣は
白く燃える太陽に身を焦がして凍えている
あざ笑う青空の中で 餌を探す猛禽が遠く弧を描く
獣の細い腕に刻まれた鱗のような痣
それが獣を 群れから追いやった
潮騒の音に痣がうずいて
獣は 居場所を求めて 哭いた
地獄のような白日の中で
獣は 人魚と出会った
幾億年 揺れ続ける海と陸の狭間で
荒波に傷ついた人魚は
黒い砂の上で 眠っていた
白昼夢の煌きの中
人魚の白い全身に 美しい鱗が輝いてた
世界の全てが そこにあった
●
物言わぬ人魚は 獣を傷つけることはなかった
浅瀬の中で その身をしなやかにくねらせている
獣は人魚の姿に 深く暗い海の世界をみた
そこは静かで 穏やかで 自分を傷つけるものなどいない
獣の腕の痣は 呪いから救いに変わった
青く深い海の中に 自分のいるべき場所がある
この人魚が きっとそこへ連れていってくれる
水面のきらめきが 自分を誘っている気がした
●
木々のざわめきを聞くたび
獣の頭の中で
あの日の声が逆巻く
5年前 風に混じった笑い声
10年前 皮膚に食い込む牙の硬さ
記憶の森さまよえば黒い大樹
過去の破片が飛び散って
獣の身体に生傷を増やしていく
ありふれたつながりはガラスの向こうで微笑んでいるけれど
そこに交じるための鍵はどこを探しても見つからなかった
失くしたものを探して
足りないものを探して
見えない嵐の中をもがいて
光を見つけたのに
温もりが怖くて
差し出された手を払ってしまった
自分の指から伸びた爪を抱えて
獣は闇に身を沈めるしかなかった
●
地上の空気に我慢ができなくなって 獣は 水の中に飛び込んだ
まとわりつく大気の重さから放たれて 獣は一瞬楽になったが
獣には 人魚のようなヒレはなかった 息をするためのエラも
腕の痣は 何の役にも立たなかった
目を覚ますと 人魚の丸い瞳と目が合った
砂浜に横たわる獣のそばに 人魚はじっと寄り添っていた
獣が視線を落とすと
人魚のしなやかなヒレは消えて 華奢な二本の脚が延びている
鱗は剥がれ落ちて かろうじて肌に張り付いているだけだった
白い胸が 空気を吸って膨らんだ
人魚は 地上の獣に成り下がっていた
森の中で群れをなし 自分を拒んだ獣たち
震える指が頬を撫でようとして 獣は人魚の腕を払いのけた
獣の手には 鋭い爪が伸びていた
愛情と憧れが 憎しみと拒絶に変わって獣の口から飛び出した
もはや人魚は 自分を傷つける他人でしかなかった
人魚は少し目を見開いて獣を見つめたが
やがて 海に向かって歩き始めた
頭の中にあの日の声が逆巻いて
過去の破片が心臓を切り裂いた
風に笑われ 雨に責められ
俺の居場所はどこにもないじゃないか!
●
水に浸かる二本の脚は 砂と石で傷だらけだった
それは 獣を助けるためにつけた傷だった
溺れた獣を 引き揚げるために手に入れた脚だった
波打つ陸と海の狭間を越えて 人魚は獣のもとへやってきた
獣は海へ飛び込んだ
ぼやけた視界の中 人魚はしなやかに身体をくねらせて 青い深みの中に消えようとしていた
鱗もヒレも捨て去って 人魚は獣のもとへやって来た
水が手足を絡めとり 息が苦しくなる
海は獣を受け入れてはくれなかった
だからこそ彼女は……
獣の手が人魚のくるぶしを掴んだ瞬間
無数の白い泡が指の隙間から逃げていった
そのとき 獣は悟った
もう二度と戻ってくることはない
人魚は泡沫に消えた
誰もいなくなった渚で
美しい鱗が 日の光に輝いていた