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死後の世界について思うこと

 そもそも「死」についてどのような認識を持っているだろうか。自分が死ぬことが怖い人、そうでは無い人、いろいろな人がいるだろう。
 ここでは、私個人の思うところを書こうと思う。
私と違う意見や考え、思想を否定するつもりはまったくない。一人一人が信じれるものを信じれば良いと思うし、信じることができるものがある、それこそが一つの幸せだと思う。
 私の意見は、「ふ~ん、こんな考えの人もいるんだ~」くらいで楽しんで欲しい。

死後の世界についての考え

 死後の世界というと、仏教では極楽浄土と地獄、キリスト教だと天国と地獄という印象がある。キリスト教徒大きくくくったが、ユダヤ教は死後の世界はないという思想だったはず... 自分はあまり宗教に詳しくないため、間違っていてもご容赦してほしい。キリスト教の天国についてはより詳しくない。

 結論からいってしまうと、自分はもう生まれたくない。もっというと、現世に存在為ている自分という意識をもって来世や極楽または地獄に行きたいと思わない。

天国や極楽浄土の存在を信じられない

 「現世が苦しくても天国(極楽浄土)がある」と平安時代など昔の人たちが言い、それが今も脈々と続いていると思う。平等院鳳凰堂は極楽浄土を再現した物であり、仏像も極楽浄土があるというアピール、そういう狙いがある。

 私は考えて思った。そのような世界が存在しているとは考えるのが難しいのだ。信じたくても実現不可ではないだろうかと思えてしまうのだ。もし、極楽に行ったとしても、その世界で悪いことをしたら、地獄行きになるのではないか。そして極楽浄土に行った人たちが互いに監視しながら自分は悪いことしていないか、そして相手はこの極楽にふさわしくない行動をしていないかと監視するのではないだろうか。それはさながら任意の五人組、そしてこの現世と何も変わらないじゃないか。。そして何を持って「わるいこと」になるのか、、それにおびえながら暮らしていかなければいけないのか。
 それならば地獄の方が、よい。これ以上落ちることはないし、苦痛になるような拷問が待っているというが、人間には適応する力がある。心をこれ以上壊れないように無意識的に人格を分けたり、依存症、自傷的な行動をとるなど、様々な防衛機制が働き、そしてその苦痛に慣れることができる。地獄のほうが良いのではないか。そう考えると、大前提として、「地獄は皆行きたくないよね。だから、現世で徳(善行)を積んで、極楽浄土をめざそう。」というものが揺らいでしまう。わるいこと(殺人等)をして、地獄にいけばいいじゃないか。それこそが一番苦痛少なく生きていけるのでは?と考える事ができてしまう。

そもそも仏教とは?

 仏教は比較的に日本人になじみがあるものだろう。しかし、仏教と一言で言っても、浄土宗、浄土真宗や日蓮宗などなど伝統的な仏教の宗派として存在為ているものは13宗もある。それぞれ考えに違いがあるため、家が寺であるなどそういう家庭ではなく、特定の宗派をもっていない大抵の我々が「仏教」と一言で言いまとめてしまうが、実際はそんな風にまとめることはできないのだ。
 仏教の始祖として、悟った人ブッタ(シッダールタ)はこの人の生を輪廻であると考えた。輪廻転生である。このように生き続けるのが苦痛であるからこそ、徳を積んで解脱(この輪廻の輪から抜け出す)することを最終目的に据えていたはずだ。私の認識ではそうである。物事や思想に固執せずにいきていく。だからこそ、はじめ、自分の悟った内容を人々に説くことをせず、弁天の介入によって語ることにしたのではないか。自分の考えを正しいとして教えることこそ、思想の押しつけとなり一人一人の信じるものを 否定する行為につながり、それ自体が悪なのではないかと逡巡したのでは、と私は勝手にそう思っている。(前述した通り、あまり詳しくなく、太宰治の『ブッダ』を読んだわけでもなく、だからといって詳しく調べ知識が正しいのかと問われると否であるため、間違ってたらほんとすみません)
 そして悟りや救いは、自分に向き合うことで見つける事ができると考えた。
 実はお墓という考えは本来仏教には存在しない。どうして日本ではそうなのかや簡単に輪廻転生の話を書いたが下記のように6つに分かれていたり、日本に伝わってきた仏教がどのような歴史によって枝分かれしたかなどを述べると長くなってしまうため、ここでは詳しく書くことを割愛する。(もしかして別の記事で投稿するかもしれませんが)

六道とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界。Wikipedia『六道』参照。六道には下記の6つがある。
 天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう、阿修羅道とも)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

自分の死生観

 ドラマとか小説とかであるような来世を期待する、その心自体が私にはあまりしっくりこない。生きているのって大変じゃない?って感じ。だから、来世や天国のようにまた人生が始まること、自分という生命が始まることがあまりうれしいわけではなく。どちらかとしては回避したい。

 その宗教を信仰しなければ、その死後は存在為ないと考えている。 

 自分としては死ぬことという概念に対して恐怖心はない。とくにこれをやらないと死ねない!みたいなものもないのでね。逆に死ねずにとか、中途半端に生き残ってしまい、治療費がかさむ方が大変だなーの気持ちが大きい。幽霊については信じていませんが、いつ自分が死んだか分からないと、誤ってうっかり死んだのに気づかずに霊として現世に残ってしまいそうだから、これから死ぬんだなの自覚がありながら死を迎えることを願っている。

 お墓にも入りたいと思わない。自らが死んだ後は、カオス(混沌)へと自分が還っていくと思っている。自分という存在が原子のようにばらばらになるというイメージだ。例えるなら、空に浮かぶ星たちは何も区切らなければそのままであるが、そうであると認識しカテゴライズすることでその星座として存在することができる。自分という存在もそれと同じように集まってきて自分ができており、最後には集まる前と同じようにばらばらへと戻っていく。それは化学反応で物質はH2OとCO2が一番エネルギーが最小であり、安定する形とも同じ。
 なぜお墓に入らなければならないのだろうか。人間が母体の中や今生きているように地球にあるさまざまな恵み(材料)を元に作られている。元へと還っていきたいのだ。なぜ、死んだ後の骨を壺に入れ、還れない形とするのだ。私がその地に生まれたという自体も自ら望んで選択したわけでもないのに、なぜ。

 私が望む形は溶岩の中に飛び込んで死ぬとか鳥葬や骨をどこかに撒くというものだが、まず前の2つは現実的に難しく、最後の方法も法律的に難しいところがある。現実的にできそうなのが、樹木葬である。そこに石碑のように自分の名前を残すことができるが、できるならば名前も書き残したくない。

最後に

 なんやかんや自分の考えを述べたが、始まりがあれば終わりがある。生命のみならず、すべてのものに終わりは来る。例外なくどんな人間であっても最後には死ぬのだ。一人一人死生観をもつことも大事だと説いている人も多い。自分の信じてきたもの、信じたいものを今一度整理し、自分の死生観について考えてみるのもよいではないだろうか。

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