なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか
「なぜブログやpixiv やnote で自分の作品を投稿するのかわからない」と言われた。これを言われてわたしはショックだったし、相手に対して少し、いや、相当がっかりした。
なぜがっかりしたのかは判然としないが、とにかく悲しい気持ちになった。今回はこの気持ちについて考えようとおもう。
なぜわたしはがっかりしたのだろうか?
そして、なぜこのことを今まさにnote に書いているのだろうか?
褒められたいからだろうか?認められたいからだろうか?共感あるいは反感を引き起こしてバズりたいからだろうか?お金になりそうだからだろうか?
どれも納得がいかない。そもそも、書くこと、描くことに理由などあるのだろうか?わたしが答えに窮するのは、そもそも意味なんて考えたことがないし、たとえあったとしても、それは大した意味を持たないからだろう。むしろ、書くことや描くことが既に、意味より大切なものを語っているのではないだろうか?
聞いてほしいメッセージがあるから書く、というよりも、言いたいことがある、というほうが正しいかもしれない。もっと言うと、語りたい衝動、描きたい衝動が、結果的に声だったり文章だったりイラストになっているだけなのだ。結果であって、目的ではない。だから書き終えた文章、仕上げにニスを塗った油絵は、わたしにとってはもはや残骸同然なのだ。だから、さっさと次の作品を作りはじめる。そしてこの残骸を公開することもまた結果であって目的ではない。これもまたパトスである。
極端な話をすると、芸術の価値というのは作品それ自体にはないとおもう。むしろ、芸術家をして作品を作らしめたパトス、芸術家の目が捉えた一瞬間の情景、質料という制約があるなかで本当に表現したいものに肉薄する苦闘を感じ取ること、そこに芸術の価値があるのではないだろうか。
いや、わたしはここで崇高な芸術論を語りたいわけではない。素人の殴り書きだろうが、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』だろうが、カフカの日記だろうが同じことなのだ。芸術作品と認められたものだけが芸術なのではない。芸術と権威は、もっとも縁遠いものではないだろうか?芸術のセンスは、好きなものを好きだと信じる勇気だ。
冒頭の知人の言いぐさはどこか小ばかにした感じで、なんだか「冷めていた」。冷静で理性的なのはたいていの場合よい(とされている)ことだが(果たしてどうだろうか?)、その態度はときに人を傷つけることもある。冷静さが罪になることだってあるのだ。つまり、わたしはこの冷静さに傷ついたのだろう。
よくわからないものに出会ったとき、それに意味を求めたくなる気持ちはよくわかる。「なぜ?」「どうして?」と口をついて出てくる。しかしそう問うとき、わたしは相手に対し、本当に誠実に問えているのだろうか?
その問いかけの裏には、「わたしの納得するような理由を提示しろ、さもないとそれを戯言とみなす」とか、「こんなくだらないことにきっと意味なんてないだろう」とか、そういう無意識的な前提が隠されていないだろうか?つまり、聞くつもりで問うているだろうか?
聞き入れるつもりもなく問うことは、相手への明確な侮辱である。わたしは知人から侮辱のにおいを嗅ぎ取った。この問いは、問いの形をした暴力だったのだった。だから、わたしはなにも言わなかった。なんとか相手を説き伏せたいとも思わなかったし、「意味なんてないですよ」と開き直って、自分のしてきたことを貶めることもしたくなかったからだ。
もしあそこで応答をしてしまうと、わたしも問いの形をした暴力という枠組みに参入することになる。だからわたしは、なにも言わないという態度を通して、問いの形をした暴力という枠組みそれ自体への抵抗を示したのだ。
わたしはそれに乗りませんよ、と。
なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか。これらの行為に通常の意味での「なぜ」という問いはきっと当てはまらない。答えるとすれば、それがわたしの在り方だから仕方ない、というほかない。そして、それを公の場に公開することも、また在り方でしかない。
しかし、もしその「なぜ」が本当に誠実な問いであるならば、本当に心から知りたいと願うならば、わたしと共に生きようとおもうならば、「答え」ではなく「応え」として、意味は自ずと立ち現れてくるのかもしれない。
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