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哲学カフェが嫌いだ

私は哲学カフェが嫌いだ。なにも毛嫌いしているわけではない。身をもって参加した経験からこう言っている。ちゃんと嫌いなのだ。それはそれで悲しいが。

哲学カフェに参加した経験があるといっても、いろんな会に出入りしたことがあるわけではない。ひとつの会に2年ほど参加していた経験が一番大きい。これは参加者が自由にテーマを持ち寄るタイプの会で、およそ週に一度開催されていた(いまも開催されている)。あとは、ツイッターで参加者を募っていたおしゃべり会のようなものに一度だけ参加したことがある。こちらは哲学カフェを名乗ってはいなかったが、哲学対話のようなものだったと記憶している。あらかじめテーマが決まっていて、そのテーマに沿って話すという形式だった。前者の主催者は以前からの知り合いで、後者の主催者とはそれ以前もそれ以後も交流はなかった。

とはいえ、どれだけの会に参加したか、どれくらいの期間参加したか、哲学カフェについてどれほどの知識があるかということは、それほど重要ではないと思う。たしかに、多くのサンプルを手に入れればより緻密な分析が可能だろうし、よりクリティカルな批判ができるかもしれないが、それは物好きな研究者の仕事だ。だがむしろ、哲学カフェにとっては一度の経験で印象が決まってしまうことのほうが重要ではないか。

もし現在哲学カフェを主宰していたり、今後主宰したいと考えている人がいるなら、ぜひともこのことを胸に留めておいてほしい。あなたにとっては数十回数百回開催してきた/していくうちのただの一回かもしれないが、参加者にとってはそれが彼/彼女の今後の身の振り方を変えてしまう可能性があるのだ。

それ以前に、なぜ自分は哲学カフェを主宰したい/しているのか、そもそも哲学カフェとはなんなのかを考えてほしい。こんなことは、「哲学」の名を冠するイベントを主催しようとするような、賢明で殊勝な人物に対して言うまでもないことだろうが。それでもこの機会に、改めて考えてみてほしい。そして、願わくは哲学カフェなどというナンセンスからは手を引いてほしい。それは無益であるどころか、往々にして有害でさえあるのだ。

さて、ここではひとつ「哲学カフェ」という名称について考えてみよう。

早速だが、「哲学カフェ」というのは、まずもってその名前が悪い。たちが悪い。なんか、気楽そうじゃん。「カフェ」とか、なんかおしゃれで、女子供が好きそうじゃん(今の時代、こういう言い方が好まれないことは重々承知している。しかし、「カフェ」という語彙の選択には、知るや知らずや無知な女子供を誘い込もうという意図があるように思えてならない。要するに、名前からしてすでに誠実さを感じないのだ)。

哲学カフェと似たようなものに、「哲学対話」というのもある。これもまたきな臭い。なぜというに、そもそも「対話しよう」という言葉は、決まって支配する側から出てくるものだからだ。そう呼びかけるかれらの本当の目論見は、con-sider ではなくcon-form なのである。一緒に遠くの星を見ようとするのではなく、同じ型に無理やりねじ込もうとする魂胆を、私のようなひねくれ者は、名前からすでに嗅ぎ取ってしまう。

余談。昨今「対話」がいたるところでもてはやされているが、私はこの風潮にも懐疑的だ。もちろん、対話それ自体に価値がないとか意味がないとか、有害だとか言いたいわけではない。「対話=よいこと」と決め込むことで警戒心と想像力を失し、対話が時に抑圧の現場にさえなっているという事実を見失ってしまうことに対して危惧しているのだ。ちなみに「推し」という言葉についても同様に鬼胎を抱いている。

閑話休題。要するにここで問いたいのは、「カフェ」だの「対話」だの、聞こえがいい言葉を使って素人をおびき寄せながら、慰み程度の知識やら学位やら(こんなものは人間的な知性の証明にはまったくならない)をちらつかせ、人畜無害な「ファシリテーター」を名乗る歪な主催者側で意味を与えることで、結局のところ人を支配したいだけなのではないかということだ。哲学カフェをやりたいと思う人は、そのポップな音の響きの裏に、誰かを支配したいという薄暗い欲望がないか、今一度省みてほしい。

とはいうものの、おそらく、哲学カフェを所望する人の多くは、純粋に哲学が好きで、人と話すのも好きで、そのよさを多くの人に知ってほしいとか、自分の勉強のためとか、人の役に立てればよいなとか、そういう無垢で素朴な気持ちでいるのだろう。支配なんて滅相もない。私はただみんなのために……。しかし、それこそが罠であり咎なのだ。本多勝一の言うように、「無知と『善意』が虐殺する」のだ。いささか過激な言葉遣いであることは認めるが、事態はそれほど楽観視できるようなものでもない。今こうしている間にも、哲学カフェのなかで否定され、叱咤され、嘲笑され、歪曲されている人がいる。こうした声は普通出てこない。なぜなら、こんな経験をした人は、もう二度と哲学カフェに参加しないからだ。

哲学カフェは暴力を孕んでいる。この事実にはより多くの人がもっと自覚的になったほうがいい。さしあたり、自分の立っている位置を見つめ直すことからはじめるのが誠実だろう。だって、「当たり前を問う」のが哲学カフェなんでしょう?「哲学カフェ」を当たり前として問わず、己の存在に疑問を抱かぬ哲学カフェなど、存在しないほうがよっぽど平和で健全なのだ。そんなもの、さっさと潰れてしまえ!


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