「小僧の神様」とは誰か?


いまだに後悔していることがある。
とある日、とある事件が起こった。人の尊厳が傷つけられるような事件が。まるで自分が傷つけられたかのように感じ、とてもショックで、悲しかった。わたしはその場に居合わせていたが、その時はなにも言えなかった。傷つけた人に、「あなたのその発言は間違っています」とは言えなかった。わたしよりよっぽど年を取っていたし、偉い人だった。それに、同じくらいの年齢の同じくらい偉い人たちが、誰一人その人を諫めなかったことも傷つけられた人にも、知らない人だったし、どんな言葉をかけていいのかもわからなかった。しかし、そのことがずっと心残りだった。あの人は間違いなく傷ついていたのに、どうしてわたしは声をかけられなかったのだろう。どうして味方がいると励ませなかったのだろう。わたしにはそれができたのに、できなかった。

そこからおよそ半年後、あの事件で傷つけられた人に偶然再会する機会があった。わたしはその人を探し、すぐさま声をかけた。「当時、あの場にいたのになにもできなくてすみませんでした」と言った。相手は「覚えていてくれてありがとう、もう大丈夫ですよ」と笑っていた。わたしが心配していたほどその人は気にしていなかったようだ。ああよかった!半年間、わたしがずっとやりたかったことだ。これで半年間抱えていた心の荷が下りる、これで楽になれる、そう思っていた。

が、そうではなかった。

半年後の喜ばしいはずの今日、自分の中に何とも釈然としない、むしろ厭な感じが残った。わたしの当初の予定では、ここでその人に思いを伝えることで、心が晴れると思っていたのに。消えると思っていたものが消えると思っていた時に消えないことで、余計につらくなってしまった。一体なんなんだろう。

結局、ズシンと重苦しい憂鬱は、モヤモヤとした違和感に変わっただけであった。そうして数日を過ごすうちに、わたしと同じような気持ちを味わっている人物と出会うこととなった。その人物とは、貴族院議員のA のことだ。貴族院議員のA とは、志賀直哉の短編小説「小僧の神様」の登場人物である。これは作者である志賀の実体験をもとに生れた作品であるらしいが、少しくあらすじを述べよう。

神田のとある秤屋に奉公する仙吉は、齢十三四の小僧である。ある日、使に出された仙吉は鮨屋の屋台を目にする。どうしても鮪の鮨を食べたいと思い、勇気を振り絞って暖簾をくぐり、鮪の鮨に手を付ける。「一つ六銭だよ」、と鮨屋の店主。仙吉の懐には四銭しかない。一度掴んだ鮨を再び台の上に戻し、仙吉はとぼとぼと店を後にした――
その一部始終を見ていた人物がいる。それが、先の貴族院議員のA だ。A はその時はただ見ているだけで、仙吉をかわいそうだと思いはしたが鮨をおごってやることはしなかった。そして、この一連の出来事はA の胸中にわだかまりを残した。
そうしてある日、A は仙吉と再会することになる。立ち寄った秤屋が、偶然にも仙吉の奉公する店だったのだ。A はしめたと思った。先日はおごってやれなかったから、この機会にご馳走してやろうと考えた。A は仙吉を指名し仕事を頼み、その御礼として鮨を食わせてやった。これでA の無念は晴れたかと思われた。しかし、どうもそうではないらしい。

Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していいはずだ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、ある喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持に似通っている。

志賀直哉『小僧の神様 他十篇』岩波文庫、2002、16頁

「もしかしたら、自分のした事が善事だという変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら?」とA は思案する。しかし、A はこの「淋しい感じ」をこれ以上深く追究しようとはしない。そうするうちにこの「淋しい感じ」も次第に忘れられていく。

きっとわたしにとっての「厭な感じ」と、A にとっての「淋しい感じ」とは、全く同じとは言わずとも、その状況も含め非常に似通った感情だと推し量られる。そこで、A に代わってというわけではないが、ここではわたしの場合を考えてみたい。わたしにとっては、一体なにが「厭な感じ」だったのか。それはおそらく、「その場で動けなかったこと」なのだ。

こう言ってしまえば、ここにおいてはもはや、あの時の傷つけられた人はそれほど重要ではなくなってくる。自分のなすべきことをなさなかった、そのことが問題の焦点なのである。法律に違反したというわけではない、市民的名誉を損なったわけではない。現に、A も自分の身分をひけらかすどころか秘密にし、偽の住所を教えてまで仙吉にごちそうしようとしたのだ。まさに陰徳である。
だから、これは単純に利己が問題なのでもない。動くことは、別に自分を利そうというわけではない。ただただ自分の仕事が十分にできなかったことに対して後悔するのだ。だから、今更なにをしてもこの「厭な感じ」も「淋しい感じ」も無くならないのだろう。どうしたってもう手遅れだからだ。

これに関連して、もうひとつ思い出すことがある。昔、友人と三人で商店街を歩いていた時のことだ。横断歩道が赤になり我々は立ち止まったが、よぼよぼのおじいさんが、覚束ない足取りでいまだ横断歩道を渡っているのを目にした。もう車道側の信号はとっくに青に変わっている。車が動き出す。わたしはというと、「助けなきゃ助けなきゃ」と思いながら、ただおじいさんを眺めているだけだった。結局、近くにあったお店のお兄さんの手助けがあり、おじいさんはなんとか道を渡りきることができた。それを見届けて、ホッとすると同時に自分が厭になった。これは何年前の話だろうか。しかしいまだに心の中に残っている。わたしはあの時、間違いなくおじいさんを助けるべきだったのだ。そして、現にあるのは、そう思いながらもなにもできなかった自分だけだ。

先の考察から推測すると、この経験をばねに、今後他の人を助けたとしても、わたしは報われることはないだろう。たとえ次に助けるのが、あの時と同じおじいさんだったとしても。とすると、奇妙なことだが、利他の本質は単に他を利することにはないのかもしれない。困っている人を助けることは、たしかに良いことではある。しかし、ただ単に他を利すれば良いのかというと、そうではないように思う。A のように、また半年後に声をかけたわたしのように、待ち構えていてはだめだった。それは自然ではないからだ。もっと自然と気持ちが湧き上がり、自然と振る舞うことが、そうとしか振る舞えないように当然振る舞うことこそが、本当の利他であり、本当の道徳なのではないか。するべき時にすべきことをしないことは不自然だし、すべきことだと頭で考え、待ち構えてするのも不自然であり、それは利他でも道徳でもない。それは病的な自我の肥大でしかない。だからA もわたしも、自分の欺瞞に嫌気がさしたのではないか。

「小僧の神様」に話を戻すと、実は、先の話には続きがあり、その結末が非常に奇妙なのだ。
仙吉はA のおかげでたらふく鮨を食べることができた。しかし、仙吉はA が何者かを知らないため、「あの客」としか言いようがない。偶然に偶然が重なり、ちょうど仙吉が願ってやまなかった鮨をごちそうしてくれた「あの客」は、もしかすると神様か、仙人か、お稲荷様かもしれない。
それ以降仙吉は、悲しい時、苦しい時には必ず「あの客」を想った。それは想うだけで慰めになった。いつかまた、「あの客」が思わぬ恵みをもたらしてくれることを信じて……。
問題はその続きだ。ここにおいて突如「作者」を名乗る人物が現れる。

作者は此処で筆を擱く事にする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えてもらって其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧は吃驚した。――とこういう風に書こうと思った。しかしそう書く事は小僧に対し少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。

志賀直哉『小僧の神様 他十篇』岩波文庫、2002、21-22頁

そう言い残し、物語は終わる。

これは実に奇妙な結末である。付記にしても余計な付け足しのようにさえ思われる。そもそも、「小僧に対し少し残酷な気がして来た」というのも意味がよくわからない。貴族院議員である裕福なA と、丁稚奉公をする貧しい仙吉との格差は、A を神格化することで仙吉に納得させるのではなく、こうした社会を作り上げてきた人間の問題として大人たちが解消すべきだと言っているのだろうか。だが、それでは少し俗っぽすぎやしないか。近代の道徳観に侵されているのではないだろうか。権利だの、平等だの、所有だの、そんな話をしているのだろうか?

断じて否と言いたい。これまでこの作品を考察してきた者はみな、作品の内容ばかりに気を取られている。貴族院議員であり一児の父親であるA 、小僧である仙吉、物語の最後にメタ的に登場する「作者」、そしてそれらの関係性――。そんなものをぐちゃぐちゃ考察する前に、表題を見よ。そこにすべて語られているではないか。我々が考えるべきは、「小僧の神様」とは一体誰なのかということなのだ。

言いっぱなしもよくないので、少しだけヒントを、いや、もう答えを述べておこう。しかしそれはわたしの口から語るまでもなく、2500年以上前に既に語られている。

アンティオノスよ、この不仕合せな浮浪者を擲(なぐ)ったのは、まずかったな、
とんだことだぞ、もし本当に、天においでの神でも彼があるとしたら。
いかにも神さま方はしばしば、他国から来た渡り者に姿を似せて、
諸国をお巡りなさるということ、ありとあらゆる者になってだ、
して世の人の、増上慢と掟を守る者とをお見分けなさるというのに。

ホメロス『オデュッセイアー』呉茂一訳、岩波文庫、1972、480行
()は引用者による補足

仙吉にしてみれば、願うところに現れた貴族院議員のA は不思議な存在だったかもしれない。つまり、「小僧にとっての神様」はA だった。しかし、その貴族院議員のA に他を利することを欲させ、己の言動を恥じ入らせた仙吉こそ、本当の神様だったのかもしれない。すなわち、仙吉こそ、「小僧の姿の神様」だったのだ。


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