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母の教え№27 嫁と姑たちの戦い(9)   9 長兄の嫁


9 長兄の嫁

 長兄は、中学校を卒業すると、父の職業を受け継ぎたいと、宇和島に在る床屋に弟子入りし、昭和28年、四年間の弟子修行(途中、身体を壊して一年足らず自宅療養した)と一年間のお礼奉公を終えて帰省し、後を受け継いだ。
 その時、次兄は、どうしても自分の力で高校に行きたいということで、中学校を卒業するとすぐに宇和島の知人宅に住み込みで入り、畑仕事を手伝いながら、夜間の四年制定時制高校に通わせてもらい、三年生になっていた。
 一方、私は、中学三年生で、卒業したら大阪方面に就職したい希望を持っていたが……、
 『できることなら、三郎だけは、家から地元の高校に行かせてやって欲しい』と次兄が、母と長兄に直談判してくれて、少ない長兄の稼ぎの中で、翌年から地元の県立高校に行かせてもらうことになり、その結果、私は、その後の三年間を、母と祖母たちのやり取りに立ち会うことになった。

 ところが、高校卒業後、ひょんなことから地元の郵便局の非常勤職員として勤めることになり、部内試験の中等部に合格して京都の郵政研修所に入所するまでの7年10か月を母の側で住むことになった。
 そのため、長兄の嫁と母のやり取りにも立ち会うこととなり、引き続き母の苦労を目の当たりにすることとなった。
 私は、25歳4か月まで母の側で暮らして来たので、兄弟三人の中では、母の考え方や教えを一番多く受け継いでおり、母が面白可笑しく話してくれる苦労話も、一番多く聞いていると自負している。

 長兄は、父の床屋を受け継いで八年目の昭和37年、28日歳の時、5歳年上の人と恋愛して結婚した。
 義姉は、六人兄妹(兄・姉妹五人)の三女として生まれたが、父親を早くになくされていたので、直ぐ上の長兄を上級学校に行かせるために犠牲となって、中学校卒業後すぐに働きに出たため、口には出せない、いろいろな苦労をした人だった。 母は昔から、長兄が嫁を貰った時は同居したいと考えていたので、居間から2mの土間を隔てた、板の間の食堂を畳の部屋に改造して一緒に住むことにした。

 当時、私は、郵便局に勤めていたので、村内にある賄いつきの下宿や自炊のできる借家を捜したが、田舎のことで、適当なところがなかなか見つからなかった。いろいろと検討した結果、長兄の申し出もあり、自宅から50mくらい離れた元旅館の一室を借り、食事は兄達と一緒にすることにした。
 長兄の結婚後、家族四人が、三度、三度の食事を規則正しく取るためには、日常生活の中でお互いに制限されることが多くなった。
 特にこれまで、親子三人が、思い思いに、好き勝手に過ごしていたものだから、食事の時間を合わせるだけで、それぞれが気を使い合うことになり、間に入った母がいろいろと苦労することになった。

 今までは、食事がしたくない時などは、「後で好きな時に食べたらいい!」と放って置かれたものが……、
 『後片付けが二重になるので、何時までも寝よらずに、早く食べに来い』と母が下宿先まで起こしに来た。
 また、『姉さんが困るから、食事が要らん時は、事前に言っておけ!』と嫁さんに気を使うことが多くなった。
 何度も、『三郎は、これまで気ままにしていたので、放って置くよおに……』と姉さんに頼んでも、『何時までも待っているので、困らさんようにせえや!』と母が繰り返し言ってくるようになり、同居の難しさを痛感することになった。

 家族の洗濯物についても、これまでは、畑仕事が忙しい時には、タライに水を溜めてつけて置き、母が畑仕事の合間に洗っていた。また、どうしても急ぐ衣類がある時は、私たちが自分で適当に洗って干すこともあった。
 結婚後、私の洗濯物は、母がしてくれることになっていたが、嫁さんが来てからは、畑仕事が忙しい時でも、そんなに放っておくこともできず、早め早めに洗濯しなければならなくなった。

 洗濯機を買った機会に、嫁さんが家族全員のものを洗濯してくれることになった。しかし、洗濯物を干すときにも、一枚一枚パンパンと手で叩いて、衣類のしわを伸ばしてから干したり、パンツや肌着にまでも、アイロンを掛けるなど、大変几帳面な性格だったので、嫁さんが忙しく、母が手の空いたときなどにも、自由に手助けすることができず、お互いがより一層、気を使うこととなった。

 母は、嫁さんとは、本当の娘のように、遠慮会釈なく、気軽に何でも話せる関係を夢見ていたようだったが……。
 また、母は、自分自身が、俳句や短歌を詠んだり、詩を作ったりしていたので、こんなことでも、同居する長兄の嫁さんとは、姑や小姑と違った関係を期待していたようだったが、そんな関係を持つことが相当に難しいことを察するまでには、そんなに時間を要しなかった。

 義姉は、六人の子供を女手一つで育てた実母の苦労を見て来たので、嫁ぎ先の親にも十二分に尽くさなければならないと思っていたようだったが、その気持ちを素直に表現できない性格がところどころに見え隠れしていた。
 母や私に対する言葉遣いも、最初から杓子定規で、余りにも丁寧なので、慣れてくるまでにかなりの時間がかかった。

 母は、最初から、嫁さんの性格を理解していたのか、嫁姑の確執は何処にもみられず、『美鈴さん、美鈴さん!』と常に立てていたので、嫁さんに小言を言ったり、他人に嫁さんの愚痴をこぼすということもほとんどなかった。
 反対に、兄や私が、嫁さんの舌足らずの言い方を怒っていると、『美鈴さんは、ものの言い方を知らんのよ。本当は、こんな気持ちよ!』とか、『こんな風に言いたかったんよ!』とか言って、母が弁解することの方が多かった。

 ただ一度だけ、『太郎には、勉強させることが出来なんだので、嫁さんだけは、高校ぐらい出た人をもらいたいと思っていたが、自分が好きになった人と一緒になれたのだから、それも仕方がないわいねえ!』と私に洩らしたことがあった。

 それよりも困ったことは、兄達がよく夫婦喧嘩をすることだった。夕食のあと、一杯呑んで気持ちよくなっている兄に対して、何事かくどくどと小言らしいことを言っていることが良く見受けられたが、私も母も、夫婦間のことだから、素知らぬ顔でその場を早めに切り上げることにしていた。
 兄は、酒を飲むと気持ちよくなって居所寝をする癖があり、少々嫁さんが小言を言っても、いちいち相槌を打たず、その場に寝入ることが多かった。

 ところが、一度だけ、よっぽど腹に据えかねたのか、傍にあった箒の柄で、嫁さんの頭を叩いて大きな瘤を作り、母からくどくどと怒られる羽目になった。
 『いくら腹が立ったと言っても、女を叩くとは、お前は最低の男だ! 女の顔を叩いて、傷でもつけたらどうするのだ。美鈴さんの親御さんに対しても、申し訳が立つまいが!……』と久しぶりの母の剣幕に驚いて、二人共しょんぼりとなってしまった。私は、まだまだ、母の権威は健在だったなと感心した。

 その後、嫁さんもこのことに堪えたのか、暫くは、夕食の後にも、小言を言わなくなっていたが、兄の居所寝は相変わらず続いていた。
 しかし、生来の性格なのか、そのうちにまた、小言が始まり、兄達の喧嘩が復活した。
 今度は、嫁さんも心得たもので、兄の我慢の限界を察知すると、叩かれる前にプイと席を立ち、何処かに消えるようになった。母も私も、相変わらず喧嘩していることは、うすうす感じてはいたが、朝食の時には揃っていたので、いちいち詮索せずに済ませていた。

 ところが、近所の奥さんたちが……、
 『昨夜、橋のたもとに、山田の嫁さんが一人でうずくまっておられたが、なんどあったんじゃろか?』
 『美鈴さんが、夜遅く橋の近くで、川上の方(親元の方)を見て淋しそうに立っておられたが、どうしたんじゃろか?』と鵜の目鷹の目で、噂していることが聞こえてきた。

 話題の少ない片田舎のことだし、噂が噂となって、そこら中に広まり、嫁姑の仲が悪く、嫁さんが辛抱できんようになって、そのうちに実家に帰るだろうということになっていたそうだ。

 この事には、母も随分と心を痛めて、『居所寝ばっかりせずに、少しは美鈴さんの言うことも、真剣に聞いてやれや!』と兄に厳しく注意したので、喧嘩は少なくなたが、相変わらず嫁さんの小言は続いていた。

 その後、母から、『太郎らがまた喧嘩して、美鈴さんが橋のたもとに立っているけん呼んで来いや!』と嘘の用事を作っては、私が呼び戻しに行かされたものだった。

 長兄の嫁ということで、部屋の祖母たちも、最初のうちは、相当に期待して、いろいろと兄達夫婦のことにも口出しをしていたが、母のときのようには聞き入れてはもらえず、しまいには諦めてしまったようだった。おまけに、嫁さんの気に障るようなことでも言ったりしたら、膨れて、暫くものも言ってもらわなかったりした。
 『最近の嫁さんは、偉いわえ! こっちが気を使わんといけん……。花子も、気の強い嫁さんをもらって、苦労するのう!』と祖母たちが嘆いて、母の立場を心配してくれたりした。

 このように、長兄の嫁さんが来てから、母がこれまで祖母たちに尽くしてきたことが、一段と値打ちが出てきた。
 『いろいろの嫁さんがいるけん、ありがたいことよ。母ちゃんの気持ちが、少しは祖母ちゃんたちにも、分かってもらえたろうか?』と母は笑っていた。
 「母ちゃんは、祖母ちゃんたちに、随分と苦労させられて、今度は、嫁さんに気を使って、また、苦労する。母ちゃんの人生は、苦労するために生まれて来たようなものじゃなあ!」と私が言うと……、
 『人生は、そう捨てたもんじゃあないよ! 父ちゃんには、早よう死に別れたが、立派な三人の子供にも恵まれたし、これからたくさんの孫にも恵まれるだろうしね……』とケタケタと笑っていた。

 また、『時代が変わったんじゃけん仕方がないんよ。戦前は、姑に仕え、戦後は、嫁に気を使って暮らすのは、母ちゃんだけじゃないけんな、この時代に生まれた女の宿命よ! ものごとは考えようで、苦労と思えば辛いけんど、どんなに辛いことでも、芝居の一場面じゃと思えば楽しく演じられるものよ! 人生は、すべて芝居みたいなもんじゃけんのお!』と母の持論が付け加えられた。

 その後、母の予想どおり、長兄に二女、次兄に一男一女、私に一男二女の7人の孫に恵まれた。しかし、それぞれに、その都度その都度、母には迷惑を掛けてきたが、それが幸せであったかどうかを、直接、聞かず仕舞いに母は逝ってしまった。

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