【29冊目】身銭を切れ ナシーム・ニコラス・タレブ
干渉屋たちがいつまでたっても学習しないのは、身銭を切っていないからだ。身銭を切らない連中(官僚化された組織)が設計した物事は、どんどん複雑になる傾向がある(そして、最終的に崩壊する)。
アドバイスが間違っていた場合の罰則が存在しないかぎり、アドバイスを生業としている人間のアドバイスは真に受けるな。
ニーチェ
「すべての人に同情する」ということは わが隣人よ! それは君自身を過酷に扱い、虐待することではないだろうか。
私たちは相場操縦を防ぐほうが社会にとってプラスになると考え、ジャーナリストが身銭を切るのを禁じてきた。 しかし、相場操縦や利益相反のほうが、間違ったアドバイスをして罰を受けないことよりも、まだましであるというのが本書の主張。本人がダウンサイドリクスを背負っていない限り、利益相反があっても問題ない。
あらゆる非対称性の生みの親である「少数決原理」
大きく身銭を切 っている(できれば、魂を捧げている) ある種の非妥協的な少数派集団が、たとえば総人口の3、4パーセントとかいう些細な割合に達しただけで、すべての人が彼らの選好に従わざるをえなくなる。彼らには拒否権があるから。宗教、言語で原理が働く。
例:イスラム人はハラル食しか食べれないが、私たちはハラル食”も”食べれる。
市場は小さな出口がひとつしかない巨大な映画館だと考えよ。
市場は市場参加者の総和ではない。市場価格の変化には、もっとも必死な買い手や売り手の活動が反映される。そう、もっとも必死な人々が市場を支配するのだ。 この点は、トレーダーだけが理解しているポイントのようだ。
見えざる手
集団が効率的に機能するためには、個人が特異な (一見すると”非合理的”な)行動(”グリーン材の誤謬”)を取ることが 必要なのかもしれない。
個人は行き先を知る必要はない、市場が知っているから。
パスカルの賭け
「神を信じて本当に神が存在すればペイオフはプラスだが、神が存在しな くても損はない。したがって、神の存在に賭けるのは一種の無料オプションである」という主張だ。 だが、無料オプションなんてものはこの世に存在しない。パスカルの賭けを論理的に突き詰める この考え方が身銭を切らない宗教、ただの学問的で不毛な活動につながることがわかるだろう。 しかし、イエスに当てはまることは、信者たちにも当てはまるはずだ。歴史的に見て、少しも身銭をらなくてすむ宗教などないのだ。
例:キリストは他の人々のために身銭を切り、自己を犠牲にした。
否定の道
反証的な経験論や反例についていえば、重要なデータがほんの少しでもあれば自分が正しいことを証明できる。たったひとつのデー 夕点(極端な偏差)さえあれば、ブラック・スワンの存在を証明するには十分なのだ。
リンディ効果
確率の世界では、変動性と”時””は同じものだ。脆さという概念によって、「時だけがモノの運命を評価できる」という概念に厳密性が加わった。ここでいうモノとは、思想、人々、知的生産物、自動車、科学理論、書籍などのことだ。「リンディ的」なものとは、逆向きに歳を取るものを指す。つまり、生存を前提条件として、時がたつごとに余命が長くなるものを指す。時のふるい分け。使っている人が生き残ってきたことも重要。
例;新刊のビジネス書は、「7つの習慣」より早く消える、
童話やおばあちゃんの知恵:認知的不協和(酸っぱい葡萄)
整理整然とした物語として表現できるものは、おそらくカモを説得するための罠だ
身銭を切ることによって直接ふるい分けられることのない活動やビジネスでは、専門用語を知っていて、専門家っぽく振る舞い、表面的な知識に精通していても、肝心の中味についてはまったくわかっていない人々が大多数を占める。
利用可能性ヒューリスティック
人間は際立った事象を、統計的頻度の高い事象だと誤解してしまう。目を惹くセンセーショナルな出来事を見ると、その出来事が実際よりも高い頻度で起こっていると思いこんでしまう。この点は、日常生活で細心の注意を払い、身を守るのには役立つが学問では仇となる。
記録のなかにブラック・スワン が存在しないからといって、そこにブラック・スワン自体が存在しなかったことにはならない(証拠がないことを証拠がない証拠と混同すること)。その記録が不十分なのであり、そうした非対称性を恒久的に分析のなかに含めるべきだ。
合理性ははっきり説明できるものではなく、生存に役立ち、破滅を防ぐものだけが合理的
(a) 合理性は、ある人の考えや信念ではなく、行動(どのような身銭を切っているか)によって決まる。
(b)合理性とは生存の問題である。何よりも生存が第一。真実、理解、科学は二の次。
サイモン「限定合理性」、サミュエルソン「顕示選好」
信念だけでは合理性を判断できない。身銭を切って行動し進化した観点からしか合理性を判断できない。非合理な信念は論じられないが、非合理な行動には論じることができる。
宗教は、テールリスクを管理しすることで生存・進化するために有効では?その過程に確率論や科学的根拠などは、要らない(結果がすべて、時のふるいにかけろ)。
起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものはすべて、理由があって生き残る。
アンサンブル確率、時間確率(リンディ効果?)
銀行員は、アンサンブル確率で物事を考えているため、資金が無限にあり、永遠にケツを割らない人でもなければ、市場全体と同水準のリターンを得ることはできないのだ。これがアンサンブル確率(集団)と時間確率(個人)の混同だ。
繰り返しリスクに身を晒すことが余命を縮める(タバコかつ登山かつ飛行機)
あなたが1回きりの低確率な破滅リスクを冒し、そのリスクを生き抜いたあと、安心してまた 1回きりの破滅リスクを冒す、なんてことを続けていれば、いずれ100パーセントの確率で破滅する。1回きりのリスクを冒すのが合理的であれば、もう1回同じリスクを冒すのもまた合理的に見えてしまう。すべての混乱の元凶はこの点にある。この事実は定量的に説明できる。個々のリ スクは1000分の1とかいう微小なものでも、そのリスクに対して身をさらす回数が増えていけ ば、破滅の確率は1へと近づいていく。
破滅を完全に避けつつリスクを愛そう
人々は破滅リスクを変化や変動と混同している。このような単純化は、より奥深くて厳密な物事の道理に反する。
私は、リスクを積極的に冒すこと、体系的で"凸"ないじくり回しを行うこと(半脆弱性)、テール・リスクはないが大儲けの可能性があるリスクをたくさん冒すことには賛成だ。 変動性のある物事がすべてリスキーなわけではないし、その逆もまた成り立つ。
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