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関東を守護する巨石と雨降り伝説の山 大山阿夫利神社へ(上社・日向薬師編)【登山記】

 12月の末に登った神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)、そして日向薬師への登山記。
 前回の記事はこちら。 

いざ大山阿夫利神社上社&奥の院へ

 大山の中腹にある大山阿夫利神社の下社の参拝をした。
 無事登山できるよう心を込めて祈り、いざ上社への登山道へ。
 今回は左手の登山道を登り、大山山頂を目指す。その後見晴台方面に下り、そこから下記の地図の右下方向にある日向薬師方面に向かう計画だ。

https://tanzawa-oyama.jp/climb/route/afuri-oyama/
丹沢・大山エリアナビのHPより

 左手のルートは途中に夫婦杉や天狗の穴、そして富士見台など見どころがあるのも面白い。石の道しるべがあり、全二十八丁目中、今どのあたりかが分かるのも嬉しかった。

夫婦杉
天狗の鼻突き穴 天狗伝説らしいが、鼻で石を穿つ理由があったのだろうか
丹沢山塊のいくつかの登山ルートともつながる
ヤビツ峠とつながるルートもある

 大山の登山道には巨石が多く、またこれら石を利用した石段が整備されている。しかし一段一段が高く、意外と難儀した。
 石のことは詳しくわからないが、かなり硬い石のようだ。巨石が所々に露出しており、まるで岩山を登っているような気分だ。
 しかし、古来から多くの人々に踏まれてきた山であり、危険な箇所はほとんどなかった。師走の末だが、気候も程よく晴天。
 多くの人々が登っていた。
 犬も登っていた(笑)。

 途中巨大な荷物を背負った歩荷がいた。
 休みのタイミングがちょうど重なったので、どれくらいの重さがあるのかを訪ねてみると、「70キロ。」との返答。山頂の山小屋(店)に運ぶ荷物であろうか。
 大汗をかいていたので、大丈夫ですかと聞くと「余裕です」と言葉少なに即答された。言葉は短かったが、感じの良い方だった。

写真では富士山が小さく見えるが、少し場所を変えると富士の山容が美しく見えた。

 山頂まであと少しというところに、富士見台があり、そこから見る雪を抱く富士山はとても美しかった。
 下社から約一時間半ほどで山頂に着いた。

大山山頂までは二十八丁目 ようやく着いた
大山講の記念だろうか

大山阿夫利神社上社(奥宮)からの素晴らしい眺め

 山頂に着くと素晴らしい景色がやはり待っていた。奥の院と大山阿夫利神社の本殿で無事の登山を感謝し、そしてお願い事をした。

上社の本殿
奥の院
多くの大山講の納め物 大太刀講という文字も見える

 山頂でおにぎりとコーヒーを飲み、そして改めて眼下に広がる景色を眺めた。関東総鎮護と言われる山だけはある。

相模湾、そしてその向こうの大島が光り輝いて見える

 右手には小田原が、そして手前には二宮や平塚・藤沢あたりの街が見える。相模川や金目川などがくっきりと映っている。
 さらに左手奥には、横浜の高層ビル群、そしてさらに遠くには房総半島がぼんやりと横たわっていた。
 また、光り輝く相模湾の向こうには、巨大な島が浮かんでいる。きっと大島だろう。

日本三大薬師の一つ 日向薬師(ひなたやくし)へ

 景色を十分に堪能した後、私たちは日向薬師のほうに下っていった。登りの登山道とうって変わって土が露出した歩きやすい道であったが、同時に単調でつまらなくも感じた。
 登山者は勝手である(笑)。
 こちら側から登る人もいるようで、何人かのハイカーとすれ違った。
 日向薬師方面は見晴台まではルートが重なっている。
 途中の見晴台では多くのハイカーが食事をとっていた。ここからの景色も良好だ。

見晴台から振り返る大山の姿 美しい形だ
見晴台からの眺め 多くのハイカーが昼食と談笑を楽しんでいた
見晴台から日向薬師方面と下社方面に分岐する。日向薬師へは4.2km。約3時間ほどかかる。

 見晴台を過ぎ、日向薬師方面へ。ここから地図上では約三時間、少し急ぎ足で向い、私たちは約二時間半ほどかかった。
 途中舗装道路と接続する。
 そのあたりには、いくつかの寺院跡や史跡があった。私たちが立ち寄ったのは、雨降山石雲寺(うこうざんせきうんじ)。
 立派な三門を従えた寺であり、中には伊勢原市指定文化財の石造の五層の塔(五輪塔)があった。

立派な石雲寺の三門
大山と同じ「雨降山」と号されていた
石塔は中世鎌倉~室町期の作のようであり、大友皇子の伝承とは時代が離れているが・・・

 この五輪塔は”伝”大友皇子の墓とされていた。壬申の乱で敗れた大友皇子は、自害したとされているが、実は生き延びて愛知県岡崎市や房総半島などに逃げ延びたという伝説がある。
 ここ伊勢原はその伝説のある地域の中間にあたる。でもなぜ・・・?
 そのカギは、この地に伝わる渡来人(百済人)との関係にあるのかもしれない。このことは、この後訪れる日向薬師の講堂で出会った老人の話から思いついたものだ。

大山だけでは片詣りと言われた、日本三大薬師の日向薬師

 日向薬師(宝城坊)は平安期の薬師如来像が知られている。
 中世的な趣と近世的な華やかな外陣が特徴の本堂も、国の重要文化財であり、その茅葺屋根にあっては50トンの茅が積まれており迫力がある。
 平成の大修理を経て、ここで往時の荘厳な姿を今の世に表している。

日向薬師参道入口
伊勢原市指定の金剛力士像
寺の歴史を物語る、古色のついた石階段
重要文化財の宝城坊本堂 茅葺屋根は御殿場などから調達し50トンの重量があるそうだ
中央の白い宝殿に薬師三尊像など重文級文化財が収められている

 写真中央に見える宝殿に向かった。
 ここには秘仏である平安期の鉈彫 木造薬師如来両脇侍像〈薬師三尊像〉が祭られている。
 残念ながら秘仏自体は見ることができなかったが、同じく中世の重文になっている、厨子、丈六 木造薬師如来両脇侍像、薬師如来の眷属とされる木造の十二神将立像をみることができた。
 ここの受付兼ガイドの老人がなかなか面白く、この日向薬師の往時の様子や近くの白髭神社に伝わる伝承などを話してくれた。
 白髭神社の祭神は、渡来人のことであり、その渡来人が大磯にたどり着き、そこから様々な技術などを広めたなどと言う地元に伝わる伝承を話してくれた。有名な「徐福伝説」もこの地に伝わっているとか。

 この老人の話してくれた渡来人の話が、先に立ち寄った石雲寺の五輪塔に大友皇子の伝承が結びついた。
 渡来人=百済人は、日本に帰化する際に大友皇子の父、天智天皇と深い関係があった。大友皇子に深く同情した渡来人が、大友皇子の遺品もしくは関係者を連れてこの地に住みつき、伝承が後代に伝わりその関係でこの地に墓が作られたのかもしれないと思ったのである。
 大友皇子が生き延びたという伝承は、調べると愛知県岡崎市、そして房総半島(千葉県)に残っているらしい。そちらにも渡来人や徐福伝承があるのだろうか。

 江戸時代には巨大な木太刀を担いで大山詣り、そして帰りは江ノ島の弁天さんもお参り、途中の藤沢の遊行寺で遊んですってんてんになって帰る、というのが粋とされた時代があったと聞いたのはこの御老人からである。

旅の疲れを癒す鶴巻温泉へ

日向薬師のバス停近くのいい感じのお店

 日向薬師の老人の話が面白く、しばらく聞いていたかったが、伊勢原駅に向かうバスの時間が迫っており、お暇させていただいた。
 毎時25分のバスになんとか間に合い伊勢原駅へ戻った。そこからとなりの鶴巻温泉に向かい、鶴巻温泉「弘法の里湯」にて疲れを癒した。

 あまり湯温が高くなく、じっくりと体を癒すことができた。
 今回の山行は、晴天に恵まれ、景色も堪能でき、伊勢原地域の歴史や文化、そして地元の人の話なども聞けた最高の行程だった。
 同行者と湯につかりながら、定例行事にしたいくらいだねと、語り合ったほどである。
 このあたりには、七沢温泉もあり、大山での登山の疲れ、そして旅の疲れをじっくりいやすことも、大山詣での醍醐味である。


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タキカワスエヒト
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