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富士フイルムが造る日本酒?はるめき桜酵母使用 日本酒『F』の度数決め

神奈川県の西の外れ、長閑な田園風景の中に、その瓦屋根の日本家屋は建つ。
「瀬戸酒造」、今回の話の舞台だ。
この足柄の地で、150年以上の歴史を持つ酒蔵で、創業は慶應元年とある。この酒蔵と富士フイルムの関係を、知る人は少ない。
富士フイルムも昭和9年の創業当初より、この足柄に本拠地を構えている。そこには「清左衛門地獄池湧水」の存在が大きく関係している。この質の高い写真フィルムを製造するために探し求められた良水は、現在も枯れることなく、点在する湧水点を合計すると、1日に約6万トン湧き出ている。その水を仕込み水として、日本酒を造り、社員が味わう。それが富士フイルムの『FUJIOH SAKE PROJECT』だ。
『富士王』とその名を冠した日本酒は、前述の足柄工場敷地内の湧水を仕込み水として造られた純米吟醸酒。爽やかな吟醸香に包まれたその酒は、決して企画ものの一発屋として終わることはなく、活動5年目の今年も新酒を醸し続けている。それを口にした社員やその知人から、非常に高い評価を得られていることも、この酒の質の高さを表している。
今回の話は、その『富士王』ではなく、さらに富士フイルムと足柄色を色濃いものとするために作られた『F』についてだ。この『F』、『富士王』の裏で、試験的にに進められてきたプロジェクトで、酵母に「はるめき桜」の花酵母の使用を試みている。この「はるめき桜」は南足柄市固有の桜であり、富士フイルム足柄工場脇を流れる狩川沿いにもその桜並木が作られている。「春木径」と名付けられたその遊歩道は、毎年3月初めに、鮮やかな色を水面に映す。早咲きの河津桜より遅く、ソメイヨシノより早く満開となる。この道の名は、元富士フイルム社長の春木榮から取られたもので、その関係性は強い。

月曜日は本来定休日

2023年6月終わりに、瀬戸酒造から富士フイルムに、今年仕込まれた『F』が発酵、醸造を終え、最終段階に入ったとの一報が入った。当初の予定より大幅に早く仕上がった知らせを受け、急遽2023年7月3日(月)の17時より、度数決めのイベントが開催されることとなった。日本酒は、搾りたての原酒に対して加水することで、アルコール度数や味わいのバランスを調整する。その加水量を、実際に試飲しながら決定するもので、酒の出来を左右する大切な工程である。幸運にも、そのイベントに賛同できることとなった筆者は、初めての体験を大変心待ちにして、落ち着かない週末を過ごした。そもそも、酒造メーカーの酒蔵に潜入することも、初めての体験となる。
参加者の注意事項に、当日だけでなく、前日から納豆を食べることを控える事が挙げられていた。有名な話であるが、納豆菌は非常に強く、酒蔵の繊細な酵母を、一気に制圧してしまうパワーがあるそうだ。酒造りを生業にしている人々は、その期間、長く納豆を食することを禁じられている。私自身、好物の納豆を誤って食さぬよう、週末の買い物で、納豆を買うことを控えた。
もう一つ、強い香水を付けてこない事、も挙げられていた。これは当然、日本酒の繊細な味や香りを、人工的な強い匂いでかき消してしまうことがないように、求められる最低限の配慮である。

敷地内の煙突
酒蔵の入り口はとても小さい
かがんで戸をくぐる


17時、現地集合。
このため私は、定時よりも1時間早く仕事を切り上げ、瀬戸酒造に向かった。月曜は定休日ということもあり、敷地内はひっそりとしている。他メンバーの到着を待ちながら、夏の夕暮れ、田園の風に吹かれながら涼を取った。

他メンバーを乗せたタクシーが到着して、いよいよ酒蔵へ。
小さなくぐり扉から中へ入ると、空気はひんやりとしている。聞くと、各工程場所によって異なるが、15℃程度に保たれているそうだ。針葉樹の木材の香りに癒される。
白衣、ネット帽を着用し、石鹸で入念に手を洗う。最後に、アルコール消毒。

それぞれの瓶に度数調整された『F』が用意されていた


2階に上がる。テーブルの上には、あらかじめ度数調整された『F』が並べられていた。今回用意された度数は、低い方から、①11.3、②11.5、③11.6、④11.7、⑤11.8、そして原酒の⑥11.9度。昨年の『F』の度数は約15度だったという。昨年との違いに対し、同席した東京農大の穂坂教授は「元々、はるめき桜の酵母は弱く、15度までの醸造に耐えられません。昨年は、醸造過程で他酵母による汚染が考えられます。その割合は約4割になります」と説明された。「今回の汚染は1割弱と考えられ、その意味でも、今年の『F』の方が、よりはるめき桜酵母による純度の高い酒だと言えます」と続けた。
穂坂教授は、酵母研究の第一人者で、瀬戸酒造で技術担当を担っている。また、はるめき桜の酵母採取の際にも、尽力いただいている。

今年の『F』について説明を受ける

続いて瀬戸酒造杜氏の小林さんから「醪(もろみ)日数は、通常の酒では20日前後であることが多いですが、この酒は7日程度と非常に短くなっています」と報告が挙がる。さらに瀬戸酒造の森社長から「非常に面白い酒が出来上がりました。去年より個性がはっきりしています」と期待を煽る。いよいよ試飲の開始。

テイスティング
真剣そのもの


私はまず初めに、一番度数の低いものから口に含んだ。その刹那、はっきりと「ワイン」の単語が頭に浮かぶ。酸味、ほのかな甘味。舌全体を使って口の中で転がすと、その印象はさらに増す。私以外のメンバーが次々と「白ワインだ」と発言している。皆、予想以上の個性溢れる美酒の完成に、自然と笑みが溢れる。しかし、試飲の表情は真剣そのもの。必要以上の発言はほとんどなく、次々に度数違いの酒のテイスティングを行う。
瀬戸酒造総務部長の関さんから「現在の完成予定量は約350リットルです。注文頂いた量より、僅かに足りない計算です」との情報が入る。もともと鈍感な味覚の私に、邪念が入り込んだ。度数を低くすればするほど、加水によって、完成量は増えるはずだ、この美酒を、少しでも多くの人に飲んで欲しい、咄嗟にその様な暗算に支配されてしまった。
実際、酸味と甘味が分かれるポイントとなる境界が存在したが、私を支配する邪念を払うことはできず、結局私は、最も度数の低い①の酒に1票を投じた。

皆、真剣な表情で各々のNo. 1を決める

結果として、②11.6度、④11.7度、⑤11.8度がそれぞれ2票づつを獲得し、再度、決戦投票を行うこととなった。
私は、自身の直感に従い、最終投票の指差しをおこなった。

せーの!

結果は、④11.7度が4票、⑤11.8度が3票となった。私も④に投票したが、その理由は酸と甘味のバランスが最も絶妙に感じられたからだ。
「この後、火入れをしますが、今より少しだけ深く、まろやかな印象になります」と杜氏から説明が入る。「本当に面白い酒。コンクールに出したら、評判になりそうです。ただ、製造における再現性が低いのが、今の課題です」と森社長が続ける。
穂坂教授も「綺麗な夏酒。ワイン酵母を使って作る日本酒と違って、嫌味やわざとらしさがない」と絶賛された。「発泡させてもまた違った楽しみ方ができるだろうし、白味魚や、モッツァレラチーズと非常によく合うと思う」と今後の展開や食のマリアージュについても具体的なイメージが膨らんでいる様だった。

今回、初めて経験した日本酒の度数決め。自分の味覚を、言語化できない表現の引き出しの少なさに辟易としながらも、非常に興味深く、楽しく参加することができた。たった0.1%刻みの加水で、酒の表情が少しづつ変化する事に何よりも驚かされた。
この機会に立ち会うことができた幸運と、ゼロからスタートしたこのプロジェクトを、ここまで身のあるものに昇華させてきた先輩たちに、強く、強く、感謝を感じた。
完成まで、あと少し。この酒は、それを口にする全ての人の心に、きっと驚きの花を満開に咲かせるに違いない。

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