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「何も無かった人」との隔絶
どうも太刀風です。
今回は自分のような人間と、虐待も障害も無く定型発達であった「何も無かった人」との隔絶について書いていきます。
自己紹介に書いた通り、私はADHDという先天的特性に加え虐待により双極性障害Ⅱ型を抱えています。ついでに虐待の後遺症も。
このようなハンデを抱えて生きていくのはかなり辛いです。同じような思いをしている方は少なくないはずです。
しかし、私たちのような人間が1度も視界に映らず、また経験も知識もない「何も無かった人」が遥かに大多数で、社会を運営するのも彼らです。
発達障害も精神障害も虐待による後遺症も目には見えません。みな「平等」に見られ認識されます。
自分自身の生育環境や経歴を、そのまま相手にも適応させている感覚はありませんか?
両親が居るだとか、中学高校を卒業しているなどといった「世間一般的には前提」とされるアレやコレらを、相手も同じだろうと勝手に同一視する感覚です。
私たちが誰かと出会い、関わりあうときの多くは背景を抜きにした目の前の状態像で理解や認識をしてしまいます。
これは仕方のないことです。ファーストコンタクトで全て理解することは無理です。
虐待や発達障害といった「ハンデ」そのものの認知は進んだように思えます。しかし、実生活でどのような影響や困りごとがあるかは知られきっていません。
ADHDなら、タスクのキャパがギリギリになりながら必死に健常者として振る舞うことがあるでしょう。私はそうでした。隠している人は多いでしょう。
双極性障害なら、躁でも鬱でも動けている間は、周囲から病気と見られず問題ないと誤解されます。実態は無理して動いているだけです。
私は病気だと知ってる家族にも誤解されました。親族であってもこの有様です。
虐待を経験したのなら、他者と親しくなることが困難になります。愛着形成に失敗しているため、「他者との距離感が分からない」「ふとした瞬間に見捨てられ不安に陥る」といった思いを抱え、人間関係に積極的になれません。
知られていないのです。
何故なら誰からも教わることが無かったから。
大変ありがたいことに「何も無かった人」らは分け隔てなく「平等」に接してくださいます。
その無邪気で残酷な言動を喰らう度、鋭利な刃物に貫かれる感覚を覚えます。それも丁寧に深く差してくるのだからタチが悪い。
私自身を客観的に悪く言うなら、
「言われた指示通りの動きが出来ないくせに、誰にも助けを求めずスケジュールを乱す。普段も自分のことを話さない不思議ちゃん。そのうち理由が分からないまま仕事は休みがちになる」
といったところでしょうか。
自意識過剰かもしれませんが……
端から見たら周囲の和を乱す社不そのものです。
ですがココでは言わせてください
私、私たちは
望んでその姿になった訳ではないのです。
胸の内に苦しみを抱えながらも気丈に振る舞った結果、得られたのは
「誤解され関わりづらい人間」
というレッテルでした。
生きることがイヤになるほど辛く苦しいのを耐え、前を向こうとするところを、「何も無かった人」らはその脇を飄々と駆け抜け、気まぐれで串刺しにしてきます。
悲しみに、怒りにその身を震わせることがあったとしても、その感情を彼らにぶつけることは出来ません。
やり場の無い感情は無力感といったものに姿を変え、私を蝕みます。
この理不尽な隔絶を埋める方法はあるのでしょうか。日々考えていますが答えは出ません。
何か妙案があれば教えてください。
おわり