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chapter5. 墜落

1972年(昭和47年)11月4日(土)
入間川に1機の航空機が墜落した

この日、埼玉県にある航空自衛隊入間(いるま)基地の滑走路を5機のF-86Fが離陸した。

静岡県にある浜松基地(この頃は浜松北基地)へ帰投する為である。
前日11月3日(祝)開催された入間航空祭への参加の為、2日(木)に機のマザーベースである浜松基地から飛来していたブルーインパルス全5機だった。

離陸直後、このうちの1機(編隊中の3番機)のエンジンが燃焼停止。この機は入間基地近郊を流れる入間川に墜落した。

Googleマップより

パイロットは緊急脱出(座席射出)に成功。生還。軽傷。
他4機は再び入間基地に着陸した。

F-86F イメージ
ブルーインパルス初代使用機
この頃は5機編成

Xより @orapo960 tujimonさん の投稿画像
お借りしています 感謝!


ノンフィクションです。

今回のお話は、この時入間外柵を舞台に繰り広げられたNob(ノブ)さんとその仲間たちの物語です。

この件はNobさんとその周辺にだけ大きな影響を与えました。
彫刻家 最上先生や世間一般の人にはさして影響していません。

(↓今連作としてこんなものを書いています)

(↓Nobさんと彫刻家先生のお話(第4回国際航空宇宙ショー)はこの後1973年のこと)

登場人物紹介
Nob(ノブ)さん …下田信夫(しもだのぶお)画伯。航空界隈ではとても有名なイラストレーター。ヒコーキマニアの重鎮。 
            (1949生-2018没)

(人物紹介は chapter2. へ)

外柵(がいさく)組 … 飛行場のフェンス際に集うマニア達の通称。航空マニアと言えばカメラで撮る際にこのフェンスをかわして脚立(きゃたつ)を使う人というイメージが定着しているかもしれない。

お世話になってます

最上(もがみ)先生 … 彫刻家。横浜みなとみらいにある作品の作者。
今回は全く登場しない。 

(人物紹介は chapter1. へ)

さて時は1972年。
Nobさんのつもりになって、この日のことを調べました。Nobさんならどうしたか。

ここからは、私筆者、また何人もの人が自ら足を使い調べ、またNobさん他何人ものベテラン勢から伝わった内容、またそこから現在の何人もの外柵勢で話し合った内容等をもとに文章にまとめたものです。

一日を順を追って記載します。

(↓川の増水時には大活躍) 入間川にあるライブカメラ映像でイメージしてみましょう

画像は 狭山市気象観測サイト ライブカメラより

皆さん一緒に若き日のNobさんの足跡を追ってみましょう。

入間川 2025年1月22日朝8時 快晴
今日は富士山見えますね

構造物の影が後方左から右前方に伸びています
つまり順光



1972年11月4日(土) 朝

「関東ノーム(濃霧)層?すっぽり」

1972年(昭和47年)11月4日(土)夕刊
朝日新聞縮刷版より

この日の朝、関東には霧が出た。

イメージ

ここではたまにこういうことがある。

心配ない。

たいてい9時10時にはすっかり

晴れる。

2015年
実際2015年11/3の航空祭の朝、同じことになりました。(つまり1972年11/4と一日ずれて霧が発生)
ですが、ここは海がない内陸部の比較的乾燥した広い平野で、霧が出ること自体が稀な上に太陽が昇ればすぐに蒸発するように霧は晴れるのです。
2015年、この時は遅くとも8時には霧はすっかり晴れ、オープニングフライト時快晴(9時前開門)で青空のもと航空祭はスタートしています。

2015年11月3日早朝 入間基地に駐機中の
T-4 ブルーインパルス
『ブルーインパルス公式ガイドブック2016』より
2015年11月3日朝 入間基地
X @acekuro8 黒澤英介カメラマンの投稿 より
朝陽が美しい

さて1972年11月4日(土)朝に話を戻そう。

この日、Nobさんはブルー離陸を家で待っていた。
この季節の滑走路運用は、この土地の者でも読めない。北上がりか南上がりかで我々マニアは右往左往する。
離陸時間もお天気次第だから、(入間からのブルー機帰投は通常であれば航空祭翌日11/4朝離陸。だが、今日は念の為霧を避け、晴れるのを待ってから離陸するだろう。)…まあでもパイロットたちは浜松で昼飯だろうな。
北でも南でもNobさんち(そして近所の私の家)は旋回ルートだから、(ここではF-86Fブルー5機浜松帰投を想定している。)

…Nobさんは、離陸音がしてから家の外に出て、見送るつもりだ。
飛行場まで行く途中で逃すよりは確実な方を選択している。

前年1971年(昭和46年)は航空祭は自粛、中止となった。1972年、この年は2年ぶりの航空祭だったのだ。昨日のこの久々の航空祭をNobさんは全力で楽しんだ。今日は家でゆっくりと最後の余韻を楽しむのも良いだろう。

入間航空祭は毎年11/3(祝)に開催されます。
航空祭の前後のゲスト外来機 飛来・帰投もファンには楽しみのひとつです。



11月4日(土)午前
昼前、浜松で昼食をとれる程の余裕を持った時間帯に、離陸。
北への上がりだった。

5機編隊離陸 イメージ
(これは'80年浜松北基地祭)

『用廃機ハンターが行く!【特集】
ブルーインパルス塗装のF-86F展示機』の頁
より
Thanks!
北上がりだと
このライブカメラは離陸直後の地点あたり
通常はこの画面に機影は入らない

…音。…来た!左!
今画面の頭上 左側 丘の上から編隊が飛び出した!
旋回してきた5機編隊が
私たちの背側へ飛び抜ける!

Nobさんは「(ああ、次はまた来年かなあ、またね。)」と思って外に出た。

そこには前もって三脚もカメラもセッティング済みだった。Nobさんが狙っているのは、上空通過からの編隊揃いの捻り、あのキラリと機体の背が一斉に光る一瞬だ。この為に数枚分残してある。昨日の航空祭で使用したフィルムの最後をここで使い切るつもりだった。

……旋回して来た…編隊が通り過ぎる…

ファインダーを覗き、シャッターを切る。

…だが…もう1周……

(あらっ?)

何周か、…大きく……上空旋回を繰り返す。(隊長機以下他4機が状況を管制塔に報告、着陸指示を上空で待つ時間があったはずだ。)

つまりNobさんがファインダー越しに見た時、実は1機墜落後だったのです。にも関わらず既にきれいな4機編隊になっていたのでぱっと見1機足りないことに気付けない。
さすがブルー。素早い。

(↓現在は6機編成、+予備機の7機移動)
編隊のポジションは wporepさんに解説
(人∀・)タノム

4機は編隊を解いて、それから、…

南から、1機ずつ順番に、着陸した…。


墜落するような低高度であれば
あるいは画面に見切れて映ったかも…

(もちろん当時はまだこのライブカメラはない)

この時Nobさんは墜落に気付いてはいない。それはこちらからは見えないところだ。
墜落音も遠すぎるように思う。

イメージ
そっちは 林に隠れてしまう
イメージ
後述するが 騒ぎになったのは
墜落地点のごく近くのみ

(↑実は「出初式」の素材画像)

…着陸音が終わった後はふわりと静かに平穏な日常が広がるばかりだ。そう、この時Nobさんは墜落に気付いてはいない。
だが着陸する様子は目で追っているだろう。そして着陸音も聴こえている。
再着陸…何かトラブルなのか。

…4機しか降りていないような気がした、かもしれない。

「…???」(1機だけ、行っちゃったのか??)

昼0時(12時) 画面左側、川面の反射にご注目
太陽の位置は高くなり画面左上に
富士山は…


11月4日(土)昼

また離陸するのなら、彼ら昼飯は入間で、離陸は昼イチだ。Nobさんは家で自分の昼飯を済ませて、昼イチ離陸を狙い基地外柵に出かけた。
「(今日は土曜だ。午後離陸になったんなら、午前中行けなかったあの人もあの人も来るはずだ。)」(この時代、土曜半ドンだった。)

半ドン … 午前中に業務・授業が終了して午後が休みの早期終業のことを指す俗語。
午後半休のこと。

Wikipediaより

外柵に着くと、仲間がいた。「Nobさん」
見知った顔数人が自然と集まってきてNobさんを囲む。

仲「よぉ…それがさ…午前中にここいた人が、『4機しか降りてない』ってさぁ…。Nobさんどう思う?」
N「やっぱりそうなの?なんかあったかなーと思って。…え、離陸…は、したの?離陸から4機だったんじゃないの?」
仲「だろ?俺もおっかしいなーと思って。…それが、ここ来て朝からいた人に聞いたら『5機だ、確かに出た』って言うんだよ。」

…不穏な空気が流れる。
1機…どこだ。

N「…誰か、何番が降りたか…確認した人いないかな?降りてないの、何番だろう。」
(Nobさんのカメラにも先程撮った編隊の姿が写っている。だがまだフィルムカメラの時代なのだ。すぐにこの場で確認できない。)

現像・プリントが必要

仲「上がった時の分の機番、メモしたのはあるんだけど。ね。」「おう、これ。航空祭の記録にと思ってな…アルバムの写真に添えるつもりだったんだ。」
N「…降りの分がないのね」
仲「また降りてくるとは思わねえ」
仲「書くものある?このメモ書き写そう。この中のどれか」
N「横田にダイバート、なんてことは…」

ダイバート … 航空機が当初の目的地以外の空港などに着陸すること。代替着陸・目的地外着陸・緊急着陸とも呼ばれる。

Wikipediaより

N「〇〇さんなら家に固定の無線、持ってるね。聴いてたりしないかな?」
仲「あの人さっきそこで会ったぞ。午前からいるだろ」「だよなぁ、家で無線聞くより今日は外で飛ぶとこ見たいよなぁ…。」

航空無線を聞くにも家に据え置き型のものを持っている人はいたものの、広くハンディタイプの機械が普及するのはこの後の時代になるかもしれない。

chapter3. より再掲)
文明の利器
まだない

仲「だよなぁ、家で無線聞くより今日は外で飛ぶとこ見たいよなぁ…。」「昨日雨で残念だったな」「え、Nobさん行ったの?」
N「地上展示いっぱい見ちゃった。」

…皆さんお気付きだったでしょうか?
そう、霧の前日はだったのです。

↓2024年は雨降って霧は出ず 3日快晴☀️

1972年
11月3日(祝) 入間航空祭ファンにはお馴染み『晴れの特異日』に珍しくまさかの雨!
行った人曰く「小雨どころか本降り」。
ブルーインパルスは駐機展示。そこにエンジンカバーなどは無く、雨晒しの地上展示だったそう。

11/4 正常に離陸したものの直後…この時の不運なエンジントラブルの原因は霧ではなく前日のと推定。水が機体の内部に残ってしまい、3番機だけが運悪くエンジンストールしてしまったのではないか。

という外柵一致の見解
バードストライク等の可能性も
(検証不能)
エンジンカバー(C-1輸送機・筆者撮影)

まぁでもハチロクは…
↓顔ど真ん中にエンジン口ですしね…
でも必要
写真はX @oldconnie 石川潤一さんの投稿 より

11/3 行った猛者ベテラン勢の1人
ありがとうございます!

いくら待っても、格納庫からブルーが出てくる気配はない。柵の際を見回りに来たここの隊員に訊いてはみたが、やはり「いつ出るのかは自分たちにも分からない」という回答だった。格納庫には戻っているようだ。

そこへ、午前中から外柵にいた別の仲間がそこらで昼食を済ませて(家が近い人は家、あるいは連れ立って飲食店から)戻ってくる。

「なあ!昼飯ついでに今あっち行ってみたんだけど!」(入間外柵にはビューポイントが他にもいくつかある。)

「向こうで1機、煙……一瞬だけど…煙見たかもって人がいたんだけど……脚立乗ってた奴」

仲「煙?」「スモークじゃなくて?どの辺よ」



指差した方は、狭山市街上空の先、そしてその向こう、入間川の方。


「見間違いだろ…?」


ブルーインパルスが。まさか。


歩くには遠いから、この皆が墜落現場まで行ったかどうかはわからない。

だがNobさんの姿はこの日の午後、入間川にかかる橋にあった。昭代橋である。

現在の昭代橋付近
(2024年12月 筆者撮影)
当時とは様子が変わっているそう

そして機体の残骸を見る。

この時我々には、パイロットの無事はわからないままだ。現場は混乱している。

何か所かに飛散した残骸が見えた。
大きなもの(元機体)は昭代橋の下流側、見えるところにあったそうだ。

入間川 昭代橋 Googleマップより

注・今回参照したライブカメラは「本富士見橋」に設置、↙こちら(上流側)を見ている

・残骸は昭代橋の下流側(地図でいうと↗)
・パラシュートは昭代橋の上流側(↙)

浜松まで行くつもりで離陸した直後だから、燃料はたっぷり入っていた。

燃えたのだろうか。

実はこの時
外柵組の中にすぐ車を出せる人がいて
皆で同乗させてもらい現場に向かったそう

現場付近には消防車が集まっていて
その点灯で すぐにそこが墜落現場付近だと
知れたという


(補足)
Nobさんは、墜落現場に機体番号を探しに行ったのだ。
そしてこの時カメラを持って外柵に出かけていたので、現場行きの途中で写真屋に寄ってもらっている。入っていたフィルムを現像に出す為に。(この日の午後、帰りにすぐに受け取ることが出来た。)

だが着いてみると…これはわかる状態だったら運がいい、そういう状況だった。(なのにあったのだ!昭代橋から見える場所に。
機番が判別できた。「773」号機だった。尾翼だったと聞いている。)

昨日までの航空祭の写真に、昨日まで生きていた3番機の機番が…必ずどこかに写っているだろう。

富士山
Nobさんによると、富士山がパラシュートの向こうに見えたそうだ。白く冠雪した富士山がはっきりきれいに見えたと。

Nobさんのことだから、この証言にはもちろん重要な意味が多く散りばめられている。

Nobさんの一コマ絵にも見られる謎解き
我々にとっては 情報伝達の手法の一つだ

まず、「富士山」。これでその光景が見えた方角が分かる。昭代橋から入間川上流側だ。対して機体は下流側にあった。

離陸後、昭代橋より手前で射出、機体が昭代橋上空を間一髪かすめる形になった。機体が空中分解するようなことはなく、いくつかに分かれたのは接地時(接水時)の衝撃によるもののように見えた。この機のパイロットは高度はギリギリの低高度まで、スピードはコントロールしつつ適切なタイミング、正しい姿勢で射出を実行したことが分かる。
パイロットは既にいなかった。

橋に被害があったという情報はなく、(この橋の交通量を思うと不幸中の幸い…というか奇跡とも言えるが)無被害だったと思われる。

被害状況「 − 」
『狭山市史 通史編 Ⅱ』より

次に富士山が「はっきりきれいに」見えた点。
これでNobさんがそこにいた時刻がある程度分かる。午後と言ってもかなり早い時間なのだ。昼1時(13時)より前だったのではないか。
ライブカメラの映像を振り返る。

朝8時

朝の富士山。快晴。雲ひとつない青空に白く冠雪した富士が頭を覗かせる。順光。

昼0時(12時)
画面左側の建物の影に注目 短い

この光線が昼に近づくにつれて変化してゆく。
太陽は向かって左側から、更に影は短く、太陽が天頂へ高くなってゆく。
空に目を移すと、朝は青く見えた空が画面左側から白んでゆく。午後に向かってやや逆光になってゆくのである。
白く冠雪した富士がだんだんと空に同化し、視認し辛くなってくる。

昼0時半(12時半)頃
太陽は私たちの前、上側にある

空は朝よりも随分白く見える。
富士山はどこだろう。折悪くその方向に雲がかかり始めている。

午後2時(14時)

川面の反射は強く、太陽が画面上側に現れた。こうなると、富士山はもう朝の冠雪白富士ではなく、白んだ空に逆光のシルエット富士がコントラストも薄く…どこ?という感じになってゆくのだ。

つまりここから見える富士山は、午前中見えやすい時間があった後、太陽が天頂近くを過ぎると日中の光線でその方向の空が白み、一旦視認し辛くなる。また、上空が晴れていたとしてもこの時間帯にその富士山側に雲がかかってゆくことも多い。
そして夕方になると、再び今度はくっきりとしたシルエット富士として視認できるようになるのである。

午後5時(17時)


11月4日(土)夕方

この日の夕刊に、小さな、そしてNobさんや皆にはとても大事な記事が載った。

Nobさんちが夕刊をとっていたとは限らない。でも夕刊をとっている家の仲間が電話で伝えてきてくれたそうだ。(携帯ではなく家の固定電話、それでも伝える。)

それも、Nobさんちの番号は知らないが名前と地域で見当を付け(自治会役員名簿を使ったようだ)、Nobさんの近所の家に「Nobさんという人を知っていませんかこういう人なんですけど、是非伝えてください、夕刊を見せてやってください」と…。
幸いにもその家の身内に事情のわかる人がいた。

これはパイロットの無事を示すものだった。現場に行ったが情報が錯綜する中でなかなか無事が確認できず、Nobさんは相当青ざめて心配していたのである。
射出は命がけだ。

パイロット
後でNobさんにも伝わってきたようですが、どうやら彼は着地後パラシュートを自ら外し、自ら歩いて消防の人に声をかけたといいます。「連絡手段がない、基地に連絡をしてくれ」と。
入間の隊員の私用車が迎えに来て昼には基地内だったのではないかという話でした。
さすがブルー。素早い。

ところが、この記事が微妙な書かれ方をしたものだったために、無事の信ぴょう性を欠くものとなってしまった。

翌5日の朝刊には何も書かれていないから、ようやく5日(日)朝になって、
「あの夕刊の記事は本当だったようだ。」ということになった。

1972年(昭和47年)11月4日(土)夕刊
朝日新聞縮刷版より

曲技飛行中に墜落 自衛隊ブルー・インパルス
四日午後零時五十分ごろ防衛庁にはいった連絡によると、同日午後零時半ごろ航空自衛隊第一航空団所属の曲技飛行隊「ブルー・インパルス」のF86Fジェット戦闘機が埼玉県入間基地の北北東約五㌔の地点の入間川の河原に墜落した。パイロットのK二尉は脱出に成功したが、軽傷を負った。
「ブルー・インパルス」は五機編隊で三日、入間基地で開かれた「入間航空ショー」に出場するため同基地に来て、浜松に帰る途中だった。

(注)
「曲技飛行中」
記事中「曲技飛行中」となっているのは、5機編隊離陸だったためと推測される。防衛庁(当時は「庁」、現在は「防衛省」)が、「上は把握しないまま現場では勝手に曲技などさせていたのか」という批判を避けたい事情があった。
現在では『曲技飛行(垂直系あり)』『曲技飛行(水平系)』『編隊航過演技』『移動のための編隊』の別があるように思う。この頃はまだ曖昧だったのだろうか。

墜落時刻が「零時半」
これもちょっと、本当は昼前だったのか早めの昼イチだったのかわからない。(注・今回は外柵情報を集め調べた結果から、この新聞記事情報を修正し午前10時すぎ頃の想定で書いた。)
新聞記事は昼過ぎすぐの連絡内容をもとにしたものであろうから、情報が錯綜していた可能性もあるし、現場→基地→防衛庁→新聞本社記者、この間に「墜落」と「生存者収容」などの情報を混同した、と考える方が我々ヒコオタ(ヒコーキオタク)から見れば自然だ。
現場の目撃情報を集めようにも、現在のようなインターネット社会以前の時代であり、X(旧Twitter)等SNSやもちろんホームページすらまだない時代である。

「入間航空ショー」
これは、「航空祭」である。前年航空祭自粛からの再開であったため、防衛庁が「祭」というのを控えた。もしくは、翌年1973年に予定されていたであろう「航空宇宙ショー」を意識した朝日新聞側の宣伝というか忖度。
航空宇宙ショーは、主催側として「朝日新聞」が大きく関わり大いに宣伝した催しだったようだ。


さてこの死傷者0の航空機墜落事故、何故地上被害が少なかったか。現場に実際足を運んでみるとよく分かる。

消防本部 大きい
の脇を入る
裏手にも消防車両
遠くに狭山大橋と大鉄塔
紅葉した落葉を踏む
2024年12月 筆者撮影
ススキ(オギ?)がほわほわと風に揺らぐ

葦の原なのだ…川とも中洲ともつかぬ浅瀬、地図によっては曖昧にしか描けないようなこの場所の枯れ葦は…前日の雨そして早朝の霧で湿っていた。

Googleだと こう
道路地図だと こう
『クイックマップル埼玉 1999年版』(昭文社)より
昭代橋も「昭和橋」と表記揺れあり

ここは消防署のすぐ裏手だった。通報を待たずして事故に気付ける程に、近い。(実際は基地から通報があったかもしれないが。管制官がまず気付くだろう。)
火は出たが初期対応が上手くいった事例かもしれない。
でなければ…小型とはいえ航空燃料満タンのジェット機だ、もし大爆発や延焼などしていればもっと大騒ぎになっていて記録にもそのように残ったはずだ。

狭山市の消防史に記載があるので
出動はあった模様

写真は機体の一部か
墜ちた時のままかは分からない
『50年のあゆみ』(狭山市消防団)より

↓ちなみに現在の入間基地の消防隊も
負けてはいられない

1972年の奇跡。
最後、パイロットが離脱直前までしっかりとコントロールできた、機体側から見ればしっかりと言うことをきいた結果だ。(機体の命…魂と言ってもいいだろうエンジンは停止しているにも関わらずだ…。)

そう、機体側から見れば。
自らは犠牲になったが主であるパイロットを助けることができた形となる。

通常なら下に落ちる。だが、直前までコントロールされ適切なタイミングで放棄された機体は、エンジンが止まっているにも関わらず揚力を失わなかった。「飛んで」いるのだ。

機体の残骸が見せたその状況。それはまるで、この機が自らの命の尽きる間際に主を救い、地上への被害を避け意思を持ってその天命を全うしたように…Nobさんには見えたかもしれない。

慣性の法則で説明はつく。エンジン以外の操作系は生きていたこと。これを操作し切ったパイロットの腕と判断力。運が良かった。不幸中の幸いとも思う。
だが、ここに感動を見る人もいる。
そんな人もこの世界にはいた。

その感動に私たちが感動するのは、あるいは私たちだけが知っているからなのかもしれない。
航空の現場に日々関わる多くの…本当に多くの人たちが、この機体たちが開発され生まれてから最後に役目を終えるまで…どれ程までに(愛情と言ってもよい程に)自らの心血を、魂を、注いでいるかを。

何人ものマニアが自ら調べここを訪れている。
そして私たちは現場にしかない紙一重の奇跡をここで学び、またネットに痕跡を残し、語り継いでゆく。

Nobさんの伝説とともに。

日没前も美しい

(→chapter6. へ続く)




次回は最終章「機体の慰霊碑」とその後の「モニュメント」のお話を。


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