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【詩の感想】さくらのはなびら

昨日に引き続き、
今日も桜をテーマにした詩です。

作者は
「存在の詩人」と称された天才、
まどみちお。

幼い子どもでもわかる
平易な言葉づかいの詩は、
幅広い層に親しまれています。

『さくらのはなびら』 
 
えだを はなれて
ひとひら

さくらの はなびらが
じめんに たどりついた

いま おわったのだ
そして はじまったのだ
 
ひとつの ことが
さくらに とって

いや ちきゅうに とって
うちゅうに とって

あたりまえすぎる
ひとつの ことが

かけがえのない
ひとつの ことが

『まど・みちお全詩集』伊藤英治・編

読みながら、
無声映画のような詩だと
思いました。

それは、
ひらがなから滲み出る
柔らかさもありますし、

文中の空白とそのリズムが
穏やかで静かな世界に
いざなってくれるような。

でも、この空白。
他の受け取り方もできるのかなと
思いました。

というのも、一般的には花びらを

「散る」とか「落ちる」と
表現することが多いと
思うんですよね。

そこを、この詩では
「じめんにたどりついた」と、
花びらを擬人化しています。

そこで、

この花びらを「人間」として、
文中の空白も「余白」として、
捉えなおしてみたら。

余白というと、

「何からも影響を受けない領域」のような
ものをイメージすることも
あるかもしれません。

でも、人間は生まれて
ひとたび言葉を持つと
言葉を捨てることができません。

そのため、起きている間じゅう
何かしら考えています。

考えないぞ!って思った時点で
「考えないぞ!」って
考えちゃいます。

そのくらい自分と思考が
引っ付いているというか
自己同一化しているのが、人間。

だから、
本当の意味で余白を知るのは、
最も難しいこと。

でも、その余白の片鱗を、
この詩が少し味わわせて
くれるような。

そう捉えると、
「えだをはなれて ひとひら」は、

思考(枝)から自分(桜)が離れた
メタファーのようにも受け取れます。

思考から離れるとは、
無限性とも言えるかもしれません。

一方で、私たちが生きているのは、
寿命をはじめとした時間や
言葉で分別(整理)された世界。

つまり、有限の世界に生きています。

だからこそ様々な
苦悩、恐れ、ジレンマ、虚しさを
経験することもあるでしょう。

でも、それらを全て消し去って
私たちを包みこんでくれるのが
無限性であり、

このあたりが真美に通じるのかなと。

だからかもしれません。

この詩を読むと、
思考がほどけていくような
深い穏やかさと静けさを感じます。

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