アイヒマンは凡庸ではない ~アーレントによる分析の問題点~
※この記事は、火曜4限のレポートをnote用に編集したものです。
悪の歴史
20世紀以前の悪
ギリシア哲学における悪は、あるひとが悪いことを望んでいる場合、それが悪いということをその人が知らないという、愚かさによるものとされている。
ユダヤ、キリスト教における悪は、神の教えを喜ぶ理性や魂に対立する概念として、神の教えに背き自身の欲望を優先させる気持ちである。
マニ教から誕生したグノーシス思想は、悪は劣った神が想像した肉体からくるものとされたが、キリスト教は唯一神の宗教であるため、肉体もまた善なる神が作ったものとして、これを斥けた。
その代わり、自分で判断を下す人間自身に責任があると考えた。その後、カントによって自分ひとりの幸福をめざす傾向性の概念が提唱され、理性より傾向性を優先してしまう人間の状態が根源悪と定義された。
またシェリングは、悪は神が創造した世界の外側にあるものと考え、自由な意思を持った人間が、神の教えより自分の欲望を優先させることに、悪の原因があると定義した。
以上のことから、20世紀以前の悪についての思想は、その所在が神から人間の内面へと移ったものとして解釈できる。
世界大戦の影響
しかし、20世紀に起こった二つの世界大戦によって、これまでにない悪のあり方が生まれた。それは、毒ガス、爆撃機による空襲、核兵器などが生まれたことで、一度に大量の人間を殺すことが可能になったことに由来する。
それらの兵器は、戦争に使用することで多くの人を一度に、そして効率的に殺すことができる。
ここに至って、戦争における科学技術は、いかに自軍の兵士を傷つけず、敵軍の兵士を多く排除できるかという、一切の人道的配慮を顧みない非情な考えを実現し、後押しする道具となった[i]。
そして、悪はついに個人の枠を飛び出し、軍隊どころか国という大きな集団の中にも現れるようになる。20世紀以前の悪を、「神による悪」「個人の悪」とするなら、新しく生まれたのは個人の枠を飛び越えた「集団の悪」である。
アイヒマンという人物
裁判での奇妙な様子
化学兵器を用いた大量殺人の事例として最も有名なのは、ナチスによるホロコーストだ。
ユダヤ人の絶滅を望んだヒトラーは、各地に絶滅収容所と呼ばれる施設を建て、鉄道などの交通機関を用いて、各地からユダヤ人を集めた。そして、彼らをガス室に送り込み、次々と殺していった。
この絶滅収容所に、ユダヤ人を移送する業務を任されていたのは、アドルフ・アイヒマンという人物である。
彼は、ナチスの幹部だった人物として知られているが、それ以上に戦後に行われた国際軍事裁判での様子が有名だろう。
彼は、ユダヤ人の虐殺に加担するという、非道な行為をしていたにも関わらず、裁判で一切反省の様子を見せなかった。
ユダヤ人を恨んでいなかった?
これは、彼がユダヤ人を殺すことは正しいと信じていたからでも、ユダヤ人に個人的な恨みを持っていたからでもない。
「ただ上から命令されたことを行っていただけ」というのが、彼が最後まで強気な態度を取り続けた、唯一で絶対の理由である。新しい技術による、効率的で非人道的な殺人。そして、それを行った人物の驚くほど冷静な態度。
この裁判は、新しい悪の存在を世界に知らしめるものとして、これ以上ない役割を果たした。
ハンナ・アーレントは、裁判でのアイヒマンの様子を、「悪の凡庸さ」という言葉で説明する。これは、20世紀以前に述べられていた悪とは全く異なる考え方である。
カントやシェリングの悪は、理性よりも自身の欲望を優先させることであった。
しかし、アイヒマンはユダヤ人の虐殺そのものを望んでいたわけではない。アーレントが指摘するように、彼は自分の昇進に熱心なだけのふつうの人物であった。
集団という逃げ道
昇進のためなら
「Xをすれば、昇進することができる」この“X”に入る言葉は何でもよく、それが偶然ユダヤ人の虐殺だったというだけなのだ。裏を返せば、昇進のためならどんなことでもするということになる。
悪い行いをしていながら、まるでその自覚がない。こうした人物が、アーレントが想定する凡庸な悪の姿である。
誰にも責任があり、誰にも責任がない
彼がこのような悪に手を染めたのは、ホロコーストが集団で行われていたからだ。ユダヤ人を列車に乗せる人、その列車を運転する人、処刑を担当する人など、多くの人がユダヤ人の虐殺に関わっている。
こうした状況では、責任の所在が分散してしまい、不明確となる。
実際には、関わった全ての人に責任が発生するだろうが、個人のレベルでは「私は命令に従って○○をしただけであり、ユダヤ人を殺してはいない」という言い訳が成立してしまう。
ガスを噴射した人でさえ、「私はガス室のボタンを押しただけだ」と主張することができるだろう。ユダヤ人の移送を指揮したアイヒマンも、同じような理屈で自信の責任から目を逸らすことができる。
愚かさが原因?
アーレントは彼が虐殺に加担した原因を、「想像力の欠如」という言葉で説明している。
「彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった」と述べているが、これはギリシア哲学における愚かさと悪の関係性を、別の言葉で説明しただけではないだろうか。
自分の行いがユダヤ人の大量死につながることを、アイヒマンが知らなかったとは考えられない。むしろ、彼はそうした事実を知っていながら、それについて考えることを意図的に避けたと解釈したほうが適切だ。
ユダヤ人の運命について考え、彼らに同情などしてしまえば、業務に支障が出てしまう。ウィンストン・スミス[ii]は、新聞の内容を書き換える仕事をしながら、正しいメディアのあり方について考えることはなかった。
アイヒマンにとってのユダヤ人もまた、考える必要のない些末な問題だったのだ。
彼にとって重要だったのは、どうすれば与えられた仕事をこなし、昇進できるかということだけであり、それ以外のことはノイズでしかなかった。
しかしそれは、意図的な選択の結果であり、最初から考える能力が欠如していたわけではない。
アイヒマンは本当に凡庸なのか
アーレントの問題点
「凡庸さ」という言葉を使っていることから、アーレントはアイヒマンを凡庸な人物と評価していることがわかる。
しかし、自分の行いを一切顧みることなく、最後まで残虐な行為を続けた彼の姿を、凡庸と評価するのは無理があるように感じる。
もし本当に彼が凡庸な人物であったなら、自分が行っていることの冷酷さに気づき、仕事を投げ出したのではないだろうか。
いくら命令されているとはいえど、間接的に虐殺に関わり続けることは、多くの人にとって苦痛なはずだ。昇進のためならどんな仕事も厭わないような人間を、凡庸な人物と評価するのは間違っている気がする。
年金のために尊厳を捨てる
アーレントは、ナチスの一員となった人間について「年金、生命保険、妻子の安全のためなら、その信条、名誉、人間の尊厳をたやすく犠牲にする。
いったんそのように堕ちてしまえば、出費がかさんで家族のかつかつの生活が脅かされたら、文字通りどんなことでもする用意ができている」と分析している。
だがこの主張も、無理があると言わざるをえない。
妻子の安全はともかく、年金や生命保険のために名誉や尊厳を捨て去ってしまうような人間は、どう考えても異常だ。
闇バイトと集団悪
最近、SNS上などで「闇バイト[iii]」という言葉を聞くようになったが、こうしたバイトに参加する人物の行動原理は、アイヒマンとほとんど同じである。
「Xをすれば、高額な報酬がもらえる」この“X”に入るのが詐欺や強盗などの犯罪であっても、彼らは躊躇しない。
この事件は多くの逮捕者を出したが、SNSを使用している経済的に恵まれない人が、一人残らず闇バイトに手を染めたわけではない。そうした人物が大衆の中に存在することは確かだが、少数派であることもまた事実である。
ナチスによるホロコーストが示したのは、集団に命令することによって実行することができる、新しい悪の形である。
しかし、これは私たちが場合によっては組織化された悪に流される可能性があることを示しただけで、誰もが潜在的には悪人であるかのように考えるのは間違っている。
闇バイトのように小規模であれば、多くの人は目先の利益より道徳を優先するだろう。恐ろしいのは、ナチスのようにそれが国家のレベルで行われた場合だ。
悪事に協力しないと生活することができなくなったり、多くの人が関わることで罪悪感を覚えづらくなる状況になったりすれば、アイヒマンのような行動をとる可能性は高まる。
変えるべきは大衆ではない
社会による脅迫
ただ、これは人にナイフを持たせ「これで誰かを殺さないとお前を処刑するぞ」と言った場合、殺人を行う可能性が高まると言っているようなものだ。
そのような行いをしないと、生きていけないような社会に問題があるのであって、その責任を個人に押しつけるのは間違っている。
アーレントの言葉からは、「新しい悪とは凡庸な君たちのことである」というメッセージが感じ取れるが、排除するべきなのはヒトラーのような組織的な悪を行う悪党であって、大衆ではない。
私たちが悪に流されてしまう可能性があることは否定できないし、それは確かな事実だ。
良きリーダーを選ぶ
でもだからこそ、そうした悪を生み出す人物が現れないよう、監視し続ける必要があるのではないだろうか。
心臓病になるからといって、心臓を取り除いたら人間は死んでしまう。必要なのは、そうした病気になるリスクを理解しつつ、治療と予防の方法を探し続けることだ。
ヒトラーのような人物が政権を取らなければ、多くの人は善人のまま過ごすことができる。病気にかからない心臓を開発するより先に、心臓病そのものを予防する方法を探すべきだ。
[i] ただし、科学者が毒ガスを銃殺より人道的な手段と考えていたという記述もあるため、一概にこれらを悪として扱うことには注意が必要である。
M・スーザン・リンディー(2022) (小川浩一訳)『軍事の科学』、ニュートンプレス、p. 158
[ii] 『一九八四年』(ジョージ・オーウェル(2009) (高橋和久訳) 『一九八四年』、早川書房)に登場する人物。抹消された人物の記録を別の人物の名前に置き換えたり、食料の配給量が上がっているかのように見せかけたりする仕事をしている。
[iii] SNS上などで高額報酬を謳い、応募者に詐欺や強盗などの犯罪を行わせる手口のこと。