ねころんでロンゴ(論語)~ダチってさ

泰伯第八

原文

曾子曰「以能問於不能。以多問於寡。有若無。實若虚。犯而不校。昔者吾友。嘗從事於斯矣。」

書き下し

曾子(そうし)曰く、「能を以って不能に問い、多きを以って寡(すくな)きに問い、有れども無きがごとく、実(みつ)れども虚(むな)しきがごとく、犯(おか)さるるも校(こう)せず。昔者(むかし)吾が友、嘗(かつ)て斯(ここ)に従事せり。」

孔子の弟子の曾子がしみじみと言った。
「すっげーデキるのに、できねーヤツにも丁寧にいろいろ教えてもらったり、
いろいろ知ってるのに、もの知らんヤツにも丁寧に聞いたり、
才能も知識もいろいろあるのに、そんな素振り全くなくて、逆に何にもないんじゃない人なんじゃないかっていう雰囲気してた。それに、人から言いがかりつけられて、喧嘩吹っ掛けられても、ムキになって揉めたりもしない…。
そんなダチが、昔いたっけな~」

寸感

この曾子が言う「ダチ」ってのは、顔回の事らしい。
ふと、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を思いだした。

人や物事に対する敬意を持ち続けると、自然にそうなるような気がする。外側の面子とかにもあんまり興味がなくなるというか、気にならなくなる。

ただ、自己防衛本能や臆病心の強い、とにかく「強い」、「金持ち」、「頭いい!」を完全フロントに出して自分を守るために他者を攻撃して、それをもって「幸せ」とか「成功」と信じている人たち・社会から見ると、自身を遜る姿、謙虚さっていうのは「見下し」、「嘲笑」そして「いじめ」の対象になるんだろうな。

ダチを持つなら、どちらを持ちたいかな?
ダチにとって、自分はどちらだったいいのかな?

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